5.31.2015

プチブル・ライフ

最近の自分は多少幸福めいてきて、困惑している。

運命は不思議なもので、ぼくがある地点に定まろうとすると、次にはそこから動かざるをえなくなる。永遠的なものに近づいたと思えば、それを取り去ってしまう。

ぼくは不幸こそ叡智の根源であると考えた。あらゆる知性は、苦しみと同質である。生きるということは苦痛であり、それが自然なのだ……「精神と全自然との合一性の認識」。
生きることが「楽しみ」とか「安逸」だと思うことが、人を一層怖ろしい絶望に陥れるのだ……ということを考えていた。

で、そういうある真理にたどり着いたと同時に、こんどは幸福に襲われるのだから参ってしまう。

ぼくの生活の大きな変化……学生から労働者への、ボロアパートから一戸建てへの、スクーターから軽自動車への、都会から田舎への、それぞれ変化は、ぼくに幸福をもたらしたようだ。ついでに、最近は職場にも受け入れられてきて、(かつての自分ではまったく想像もできなかったことだが)、労働者仲間と親しく雑談するようになった。

考えてみれば、中産階級のやや上、いわゆるアッパーミドルとか、プチブルという領域は、もっとも幸福に近い階層であるらしい。ぼくも現時点ではその領域にある。(もっとも、年収1000万円からがプチブルだ……いや、2000万円からだ……という定義づけはあるだろうが)

すなわち、ルンバが駆けて、ドラム式洗濯機が回り、トイレは自動で開閉する。これらのわずかな変化、わずかな解放が、積もり積もって、ぼくに幸福を与えてくれるようだ。

次には幸福を脱ぎ去らなければならない、ということを考える。いずれ、弛緩した生活は本物ではないと、捨て去るときがくるのかもしれない。

それとも、ぼくは幸福なプチブルとして、曖昧な知恵を抱えたディレッタントとして、今後の生を終えるのかもしれない?ぼくはとうに「治療されて」しまっていて、健康人として、凡庸なありふれた世俗人として消滅してしまうのかもしれない。

運命がぼくに命じているのは、お前はもう十分苦しんだから、十分知恵をつけたから、もう休め、祥を享受しろ、ということなのか。それとも、より大きな不幸と絶望を与えるための前準備なのか。

いずれにせよ、ぼくが幸福だと思うことは、金銭でも、名誉でも、快楽でもない。ぼくは富の蓄積それ自体に興味は沸かないし、承認欲求もあまりない。性欲はあるが、性交に対する熱情はあまりない。

ああ、でもたしかに、少し精神の変化はあるかもしれない。昨日は、孤独でささやかに幸福な土曜日には、家具屋に行き、セール品の8万円のソファに座ってみて、これはいい、ぜひ買いたい、というふうに思った。

8万円・・・学生時代の、一か月分の生活費だ!家賃を3万円差し引いて、残りは、50円の納豆とか、半額の魚の切り身とか、20円のモヤシを買うために、使ったものだ(もちろん酒やタバコにも使ったが)。

ずいぶん変わってしまった……。何も知らないうちに、人間は変わってしまうものだ。

でも、環境が変われば、人間が変わるのは当たり前だ。やはり、人間には差異などはないらしい。環境がすべてを規定する。自己とは、自己と環境である。不幸で、絶望に満ちた人間に、ぽんと1000万円でも与えてしまえば、もう変わってしまうだろう。

かつての自分と、いまのぼくは違うのだ。過去は断絶されている。ぼくはもうかつての自分には戻れないだろう。

ともあれ、ぼくは不幸に落ち着けず、幸福にも落ち着けないという予感はしている。人間は揺れ動く生き物であるらしい。永遠に定まらぬということがぼくの不幸であり、喜びでもあるのだろう。

「一度この病気にかかったものは、二、三度失望すると、もう自分とほかの人たちのあいだにはぜんぜん関係がない、せいぜい誤解があるだけだ、実際は各人みな絶対的な孤独の中をさすらっているのであって、他人に自分をほんとにわからすことはできない、なにものも他人と分かち合い共にすることはできない、と思い込んでしまう。そういう病人は思い上がって、たがいに理解し合い愛し合うことのできる健全な人たちはみな衆愚だ、と考えるということにもなる。この病気が一般的になると、人類は死滅するほかはないだろう。しかし、それは中部ヨーロッパと上層階級とだけに見られることだ。若い人たちの場合にはこの病気は治る。これはむしろもう青年の心身転換期の避けがたい病気にさえなっている」
……
「しかし治療法はありますよ。われとなんじとのあいだには橋がないというのは、また各人みな孤独で理解されずに歩いているというのは、妄想ですよ。その反対に、人びとが共通に持っているものは、各個人が各個に持っており他人と自己を区別する標準とするところの者より、はるかに多くかつ重大なのです。」
……
「じゃ、やってごらんなさいよ!本を読んだり、理論をひねくったりしてはいけない。……自分自身のことより、ほかの人のことをよけい考えるように、しばらく修業してみなさい!それが、なおるための唯一の道です」
「自分の幸福に対しある程度無関心にならなくてはいけない。自分なんかなんだ、と考えることを学ばなければいけない。それに役立つ手段がただひとつある。きみは、自分の幸福より相手の人の幸福が重大だというほどに、だれかある人を愛する修業をしなければならない。といって、恋をせよというのじゃありませんよ!そりゃ正反対です」(「春の嵐」ヘルマン・ヘッセ)
......
「まず自分のほうからほかの人びとを理解し、喜ばし、正しく遇するように試みなければなりません」



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