5.07.2015

クリマ

この連休はまったく孤独に過ごした。たまたまこちらに観光にきた親戚以外とは、言葉を交わすこともほとんどなかった。

そのおかげで、まったくそのおかげで、精神はよく回復した。ひとと話さないこと、ひとの近くにいないことは、ゆたかなことだ。恵まれたことだ。

それでも、他者との関係が断絶したわけではない。他者とはどうしようもなくつながっている。というのも、自己のなかに他者性は必ず入っているからである。

存在の発端は、母親の肉体の一部だ。そこから、周りにはつねに他者があった。「保護者がいなければ生きていけない」と、生まれたときから学習しつづけた。だから会社のオーナーごときに下卑た嘘笑いを見せるのだ。

「一人では生きていけない」。そんなことは当たり前だ。しかし、表層のつながりがすべてではない。孤独であること、隠遁や瞑想の目的のひとつは、かえって深層のつながりを認識することだろう。そこで、他者は極端に抽象化される。母親とか、友人とか、遠く異国の人々とか、すべてがひとつの概念になる。抽象化された先は、涅槃だったり、神そのものになったり、さまざまだろう。
自分のなかに他者がいる。
つまり、ぼくら人間はメビウスの輪である。自分というものを辿ると、他者になる。他者を辿ると、自己に行き着く。人間だけではない。自然や環境も、自己である。
というようなことを一月に書いたが、案外的外れではないかもしれない。しかし昔の記事は読んでいて寒気がするな……。

孤独であることは、かえって他者とのつながりを見つけることでもあった。人を嫌い、世を呪って生きてきたぼくであっても、他者とのつながりをどうしても切り離せないことを知った。この事実はしぶしぶ認めるしかなかった。

それはある意味で西洋個人主義との決別でもあった。まず自己があり、そこから他者があるのではない。自己のなかに他者があり、他者の中に自己があるのである。それは道教のシンボルであるところの陰陽図にもよく似る。

陰陽図大極魚
万物の陰陽は表裏一体なのである。自己と他者も、また一体と見なさなければならない。

自己と他者を切り分ける前は、おそらくすべてが自己だったはずである。これは精神の発達過程を考えると、赤子の領域である。また、未開の民族にあっても、自己と他者を区別しない、という調査結果もあった(はず)。

ひとは赤子になりたがるものかもしれない。それはニーチェの「駱駝」「獅子」「赤子」の三段論法的な意味で……。

西田幾多郎の「主客未分」も、おそらくこの領域のことではないのか……。すべてが自己であるならば、それは主客未分といっても差し支えないだろう。

「主客未分の状態」とは言語の階層構造さへできていない状態では「見るもの - 主体(subject)」も「見られるもの - 客体(object)」すら生まれてくることはない状態です。このあと、人間のフィルターを通して「主客」の分別が出来上がるというわけです。
自己が他者で他者が自己なり。世界はひとつの現象である。

思考を解体させよう。きっと社会不適合の烙印を押されるけども。
スイスの精神医学者ビンスワンガーは、数十年にわたる臨床活動の総決算として集成した「精神分裂病」のなかで、分裂病(スキゾフレニー)は人間存在に異質な病態ではなく、人間から人間へ、現存在(ダー・ザイン)から現存在への自由な交わりを通して現れる特有な世界内のあり方であると規定している。
文化とは、そもそもがこのスキゾフレニー的動きをもつ生(レーベン)の、人間的な表現なのであって、私たちは表層意識においてこそ硬直化され画一化された生き方を強いられているけれども、その深層意識にあっては、常に流動的生成に向かって開かれた身を生きているのである。(「言葉・狂気・エロス」丸山圭三郎)

統合失調症って赤子なんだろうな。つまり言語以前の領域を彼は経験していて(=純粋経験と見るには早いか)、だから「言葉のサラダ」と言われるように、言語のつながりがおかしくなる。

精神疾患を見るときの誤りは、彼が正常な能力を「失っている」と考えることにある。実際のところ、彼はある感覚あるいは能力が過度に鋭敏になっているのだろう。だから狂気と天才は紙一重なのだ。

言語学って言語以前のことを知る学問でもあるんだな、と考えたりした。

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