5.05.2015

「私はダンスができ、人生の表面をよく知っているので、あんたはふしぎに思うのね、私が幸福でないのを。私は私で、あんたがそんなに人生に失望しているのを不思議に思うわ。だってあんたはいちばん美しい深いこと、つまり精神や芸術や思索に親しんでいるんだもの。だから、私たちはたがいに惹きつけ合ったのよ。……私たちふたりは悪魔の子だと思わない?」(「荒野のおおかみ」ヘッセ)

不快な気分が続いていたが軽く夜のドライブをして海風に触れたらよくなった。

車を走らせることが無意識的になってきて、走っていると精神的に落ち着くようになってきた。夢を見ると思考がまとまったりということがあるけれど、車を走っていると同じように精神が下降していって、もろもろの考えが納得したり、精神が安定したり、という効果があるようだ。とくに、夜の町並みを走っている感覚は、夢の世界みたいだ。目をつぶったときの闇と光の交錯は、夜の運転の感覚と似ている。

田舎のひとびとは、まったくぼくの興味をそそらない。男は似たようなヤンキー風の人々で、女性は悲しくなるほど不細工しかいない。考えてみると、都会の美人の多さは当たり前のものではなかったようだ。都会の女性たちの完成度の高さ、美への追求のストイックさはすごいものがある。ほとんど芸術品だ。田舎の女性と都会の女性は、同じ人間とは思えない。汚いジャージにボサボサの茶髪、下品であるかへたくそな化粧、3年前に流行ったファッション、というような人間は都会にはいない。

そもそも、失礼を承知で言うが、骨格から不細工な女性が田舎には多い。都会は美人たちを吸収してしまうものらしい。才能ある人や、知的な人は、みな都会に吸い込まれてしまって、戻ってこない。

東京の大学にいたときに、今いるところに就職したい、と研究室の准教授にいったら、「そんなところは負け組の行くところだ」と一笑に付された。負け組、たしかに。若干三十過ぎで准教授のエリートからしてみれば、田舎の小企業ではたらく人間は、負け組でしかないだろう。

自分はたしかに負け組だが、不思議と負け組であることに悔しさがわかない。漫画かなにかであれば、「なにくそ」とがんばって、成功をつかみ取るだろう。そういったサクセス・ストーリーのようには、ならない。だれかに勝つこと、負けることは、どうでもいいことだ。ましてや「組」に入ることなど。汚泥の山は登らない。

昨日おとといと四国へいってきた。なんとなく、だ。ぼくはどうせ日本を離れる予定だ。それがいつになるかはわからないし、海外移住なんて夢物語に終わるのかもしれない。ただ、国を離れるのであれば、それまでに、生まれ育った国を知っておきたいと思ったのだ。

いまの日本は、完全に生きづらい貧しい国になってしまった。もうこの国に、未来はあまりないのだと感じる。感じる、というか、つぼ型の人口グラフを見れば、それはもう予測というよりは宣告なのだろう。東京オリンピックが最後の花火だ。あとは、戦争のようなバクチに出るしかない。

生まれ育ったという以外に、この国に対する愛着はなく、他国と比べてしまえば惨めな国民が住まう「おしまいの国」でしかない。サービス残業、低賃金、高すぎるインフラ、文化的荒廃、重税、自殺率、官僚・報道の腐敗、どれも救いようがない。

それでも、日本の歴史は嫌いにはなれない。過去の日本はおそらくそこそこよかったのではないか、と夢想したりする。ぼくのような中途半端な歴史の知識しかもたない人は、決まって縄文時代や江戸時代に理想を見つけたりするそうだが、ぼくも同様だ。いや、江戸は生きづらそうだが、縄文時代はやはりイデア的な輝きをもっている。

とにかく日本のことを知っておこうと思った。そのための四国旅行だったが、まあまあよいものだった。まあまあというのは、時間がなくあまりめぐれなかったためだ。

鳴門の滝より。
四国といっても、同じ日本であるから、地方都市特有のチェーン店で埋め尽くされた汚い街並みは共通だが、それでも山へ登ったりすると、岩や山の表情の違いに驚くことがある。

まあ、四国の旅行記などどうでもよいことだ。



幸福とは何か、と考えることがある。おそらく人は幸福に到達できないのだろう。

何千年も前から、人々は幸福にいたるにはどうすればよいかを考えていた。仏教では、それは輪廻転生から解脱し、仏になることだとされた。ところで、その幸福にたどり着いた仏はどれだけいるのか?この人類の歴史において、仏陀その人以外にはいないのである。幸福はだから、ほとんど不可能に近いのだ。

キリスト教では、ひとびとは「原罪」を背負っているとされた。それによって人々は楽園から追放された。この生は流刑なのである。したがって、不幸なのだ。

人生は多かれ少なかれ、不幸なものであるし、知ることとは、悲しむことでもある。

この虚偽に満ちた世界では、あべこべに、悲しむことがおかしいことだとされている。訳もなく泣きたい気もちになることは、だれにだってあることだ。この生は苦しく、悲しいものだからだ。それなのに、ときには、それが異常だとされる。

憂鬱がひどくなれば、それは病気だ、と人々はいう。脳内のモノアミンがどうとか、こじつける。病気は治さなければならない。そうして、ひとは抗欝剤や抗不安薬によって「健康」になる。健康であることは、人生の悲しさにもう気づかないことを意味する。

だれもが偽の幸福で満足するよう強いられる。これが幸福なのだ、と百万回いわれれば、だれだってそういうものだと思ってしまうだろう。しかし、そこから抜け出さなくてはならない。
あなたの知性が迷妄の汚れを離れるとき、あなたは、聞くであろうことと聞いたこととを嫌うだろう。(ギーター)
本当の幸福を、追求せねばならない。もっとも、幸福への追求をやめることが、かえって幸福への近道だったりもするのだけど。

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