5.30.2015

差異という迷妄

それにしても、ぼくにはバカなことしか書けないようだ。どれもこれも薄っぺらく、表面的だ。女のように一元的にしか語ることができない。ある種の男性的な厳格さ、真剣さのようなものが欠如している。

永遠的なもの、偉大なもの、そういうものにあこがれることがあったが、もはや不可能だろう。ぼくの書くことは、ぼく自身を満足させることしかできない。

書くことのすべてが、錯誤に満ち満ちているようだ。そりゃそうだ。ぼくは勉強していないのだから。この世にはぼくの知らないことがたくさんある。知識は膨大に積み重なった。そうだから、ぼくより勉強している学者とか、作家なんかには勝てるはずがない。

それでも、なんだか執着が離れてしまった。ぼくの知らない美しい世界がどこかにある、とはもはや思わなくなった。

かつては、その執着がぼくを苦しめた。例えば、自分が東大卒でない苦しみ。海外生活経験がないことの苦しみ。本を1000冊読んでいない苦しみ。3歳から楽器を始めていない苦しみ。精神的な健康から程遠かった苦しみ。

でもまあ、ぼくはぼくであることしかできないのだし、ぼくはぼくであるというだけで、それはひとつの冒険なのである。

最近、個性というものを滅却させてみようと思っている。実に個性という迷妄がひとを苦しめるからだ。

フロイト心理学はクソデタラメだ。人間の精神が過去の経験によって規定されることはない。ハンス少年は普遍性を持たない。精神分析は狂人による病人の治療だ。そこに健康の概念はない。

健康な人間は過去に束縛されない。過去に執着することが精神の病気を生む。ぼくらが受けた親の教育から、学校の教育から、ぼくらは自由になることができる。というか、すでに自由だ。

ぼくらは、自分が自分であることの責任を放棄することもできる。ぼくらが今人生に苦しむのは、「毒親」のせいだ、と言うこともできる。「フロイト心理学によれば、過去の心的外傷が……」と知った顔をすることはできる。

ぼくらのポピュリスティックな無責任主義が、あるいは近代以降の自由意志に対する閉塞感が、フロイト心理学という神話を選んだ。ぼくらの未来と現在は、すでに決まっているのだ。つまり今の苦しみも、過去の清算でしかないということだ。

しかし実際は、親の教育なんて何の意味もない。

昨日会社の健康診断があったが、血圧が低血圧すれすれだった。そんなことは、これを読んでいる人には、自明のことだろう。高血圧の人間は以上のような文章を書かない。ぼくは低血圧であるがゆえに、日々鬱屈した文章を書く。

ぼくの血圧が50mmHg高ければ、ぼくの書く文章はまったく違うものになり、そうしてぼくはまったく違う人生を歩むことだろう。たかが血圧が、人間を左右する。

人間は規定されない。人間は記述されない。人間は論理ではない。人間は歴史をもたない。

ただし、病的な人間は規定されるし、記述されうる。カルテにおけるジェノグラム、エピソード。

ぼくは神経質に生まれた。そうして、低血圧である。親の教育なんて、関係ない。ぼくが神経質であることは、生まれもったものだし、低血圧であることは、親の影響よりはるかに食事の影響だ。

いま勤めている会社がぼくに影響を与えるとしても、それは固有の事実ではない。ぼくは普遍的なものしか受け取らないからだ。ぼくに与えられるものはぼくだけに与えられるものではない。そうして、ある人物にだけ与えられる事実もまた存在しない。

ぼくらの人生はある限界を持っているが、それは個という存在が限界を持た「ねばならない」からである。個として生きる以上は限界を受忍しなければならない。しかし、万人に共通の神性をもつ限りは、ぼくらは世界をあまねく満たすことができる。

個に執着すること、それは他者との間に線を引くことだ。そうして、小さな差異に、子どもじみた執着を持つことだ。しかし、人間と人間の間にそれほどの差異はない。

もちろん、社会において差異は重要なファクターだ。学者に向いている奴がいれば、ドカチンに向いている奴がいる。社会のもっとも根源的な意義は役割分担だ。だから、社会的生物は、必然的に差異に執着することになる。

だが人間は四肢を持つものだし、その目は二つで、指は五本であるし、「泣いた赤鬼」を読めば悲しくなる。「個性」とは、社会的迷妄である。われわれは個性を求める。人と違うことを望む。だが、それは手段と目的の逆転だ。ひとびとをありもしない個性に駆り立てる現代は、産業社会的な悲劇である。

ぼくらに差異はない。

だから、もっとも軽蔑する人間にも、自分と同じものを見つけなければならない。自分の中に他者を見つけ、他者の中に自己を見つけることだ。そうすれば差異という執着、個性という迷妄から抜け出せるはずだ。




ぼくはたしかに、世間的に見れば、個性的と言われる部類に入るが、ぼくに固有なことなんて何もない。ぼくを規定することは、少し神経過敏ということくらいである。

ぼくを規定することは、どこの大学を出たとか、部活が何だった、ということではない。神経過敏で、少し低血圧な人間ということだけだ。だれでも神経が過敏になり、低血圧になれば、ぼくと同じになる。ぼくに固有なものはないのである。

それって個性じゃないの?といわれそうだ。もちろん人間がすべて同じであることはありえない。そこには差異がある。しかし、差異よりも同質性の方がはるかに大きい。現代の社会的病は、差異を無限に増幅することにより生じる。

それは権力構造的必然なのだろう。社会組織が大きくなれば……ある人間がある人間の上に立たなければならない段階が生じる。そこに差異の神話が生まれる。次第に、人間が役割を持つのではなく、役割が人間を規定するようになった。それは進化というより、退化であると言えるだろう。

サルやゴリラにも階層構造があるが、ぼくらはサルでもゴリラでもない。ニーチェは俗人を「サルの中のサル」と酷評したが……。

なんかまたダメなことを書いた気分だ。今は土曜の朝だから、なんでも許されるだろう。

3 件のコメント:

  1. >ぼくに固有なものはないのである。

    あるよ。「あなた独自の感性と魅力」があるよ。
    感性や魅力は、いくら勉強したからって容易く身につくものじゃない。

    >血圧が、人間を左右する

    なるほど。低血圧にはオルゴールがいいのだとか…。
    試しにオルゴールを聞きながら横になってみたら虚しい気分になったけどね。

    返信削除
  2. >あるよ。「あなた独自の感性と魅力」があるよ。
    ないのでしょう。

    おそらくぼくが持っているものは、だれもが持っていることです。
    「自分が何らかの能力を持っている」と思うことは、醜悪な誤りです。
    自分は特別だ、と思っていた時期もありますが、それは誤りでした。
    ぼくに魅力を感じるとすれば、それは人間の持つ魅力でしょう。ぼくのものではありません。

    返信削除
  3. >ないのでしょう。

    こういうとこ、おもしろいです。
    さて、才能のない私でも人より苦しいのだから…
    何かは持っているかもしれないと思っていましたが
    「醜悪な誤り」であったとは。。。
    ハッとしました。六月から真面目に生きようと思います。

    返信削除