5.09.2015

苦しむことについて

自己に対して然りを言うこと、これは成熟した果実である。(道徳の系譜)
何も考えず現状肯定な人間は嫌になる。しかし、そういった人が世の中の大部分だ。

それはおそらくギーター風に言えば暗質の人間なのだろう。

ギーターでは人間を三種類に分けている。純質、激質、暗質の人間である。ぼくのなかの簡単なイメージで言えば、純質の人間は利他的で知を愛し真理に近い人、激質の人間は権力欲の強いバリバリ働くタイプ、暗質の人間は無気力なニートだ。

おもしろいことにギーターではそれぞれが食べるものの傾向までいい当てている。純質の人間は腹持ちのいい口当たりのまろやかなものを好み、激質の人間はしょっぱかったり辛いものを好み(カレーやラーメン?)、暗質の人間は腐りかけのものを食べる(半額弁当か?)。

このあたり、クレッチマーの性格分類に通じるものがある。食べるものが、体を構成する。また精神も、体とは切り離せるものではない。

最近少し太ってきて、ここ十年くらい56kgをキープしていたのが、58kgまであがってきた。それだけで精神はだいぶ鈍化してしまったように思う。

あの「モード」、神経がひどく鋭敏になる感覚がときに恋しくなる。もちろんその鋭敏さは、厭世観と切り離せるものではない。孤独の闇に逃げ込み、神経が興奮し、その苦痛にのたうち回るような感覚は、幸福とは程遠いが、ときおり見える雷鳴のような輝きには確かにすばらしいものがあった。

この感覚は、一人旅にも似ていて、行中は苦痛でしかなく、肉体と精神の負担著しいが、
ある瞬間にぱっと、生のすばらしさを全身で受け止めるような、そういった瞬間がある。

それは例えば世界遺産を目の当たりにしたときとか、そういう陳腐な瞬間ではない。かえってそういう瞬間には、失望と退屈とがあるものである。そうではなく、旅先の空が青かったり、異国の人々の軽やかな笑顔を目にしたりとか、そういったささいなときに世界と自己が一致するような感覚になる。

太った理由を探ってみると、ここのところ毎日酒を飲んでいるからに違いない。汚泥のような日々だ。

金はある。ぼくの初任給を言うと、だれもが「もらいすぎ」という。ぼくもある程度は給料で会社を選んだのだから、当然のなりゆきだが、それにしても金に執着のないぼくが、仕事のできない無能のぼくが高給取りとは笑えるものだ。案外世の金持ちはこういう気分をもっているのかもしれない。

金を持っていても金がなくても、人生のゆたかさとは関係がない。かえって、大学時代の方がぼくの生活はゆたかだったと思う。もっとも、それは発狂しそうなおぞましい苦痛とセットだった。というのも、スラムと変わらない生活環境と、貧困があったからだ。

それにしても思うのは、苦痛を感じるのにも才能がいるということだ。先の暗質の人々を見て思うのは、無理やり自分を納得させているということだ。理性が自分の感情を抑えつけている。内的に矛盾している。自己を深い根元で否定している。

「俺はこのままで何も文句はないよ」というときの彼の表情には、たしかに満足というよりは、不満が見てとれる。でも本人はそれに気づいていない。あるいは、無理やりに目をそむけている。だから「君だって不満なはずだ」と指摘すれば、彼は感謝するどころか、逆鱗に触れられたように激昂する。いつもこのパターンで、うんざりする。

人間は、本来、何でも知ることができるはずだ。おそらく理性が、それを抑えつけてしまう。

暗質の人間は、根本において自己矛盾的で、精神倒錯気味である。とは言っても、それが世の中のスタンダードなのだから(おとなしい小市民)、純質の人間、激質の人間はかえって狂人扱いされてしまう。

苦しむことは、内的な訴えに耳を傾けることだ。だから、苦しむことというのは、かえって最大限自分を認めることなのだ。自分を肯定することは、苦しいことなのだ。自己肯定とは、ほがらかな協調と円満にあるのではない。かえって孤独と絶望のなかに見つけられるものだ。

人は苦痛を感じることでしか、前に進めない。苦痛が人生を導くのだ。だって、そこに苦痛がなかったら人はどうして前に進もうと思うだろうか?

苦痛に対する感情=「否」、それが存在の前提ということになるだろう。「然り」は「否」の先にしかない。

ところで「然り」とは苦しみからの解放を意味するのではない。苦しむよう生まれた人間は、必ず苦しみ続ける。それは運命のようなものだ。だから、「苦しむ」ことを「肯定」するのだ。

暗質の人間は苦痛に気づかず、激質の人間は苦痛を超越した(できる)と思い込む。そうではなく、もっとも真理に近いことは、苦しむことを受け入れることなのだろう。

それから私は自分の明るい日には、太陽や森や茶色の岩や遠い銀色の山々を、幸福と美と受胎との重なる感情をもってながめた。また暗いときには私は、自分の病める心が二重の熱をもってひろがり激するのを感じた。私はもはや快楽と憂苦とを区別しなかった。それはたがいにひとしく、どちらもが私に苦痛をあたえ、どちらもが甘美であった。私の心が楽しんだり悲しんだりしているあいだにも、私の知からはしずかにその上に立って傍観し、明るさと暗さが兄弟のように結びついていることを、苦悩と平和とはおなじ偉大な音楽の拍子、力、部分であることを知った。(「春の嵐」ヘッセ)「知から」ってなんだ?

0 件のコメント:

コメントを投稿