5.08.2015

労働と金と移住

肉体の流動化。

おそろしいほど仕事のミスがない。

てきぱきと、周囲を支配する空気を機敏に察知し、適度にサボりながらも、表面的には「ずっと仕事してる」体を装い、休憩に入れと指示があったときには「もっと仕事したかったのになあ」というニュアンスを1%くらい混ぜた顔で笑顔で返事をする。

上司とはきさくに話をする。上司が5話しかけてきたとしたら、3はこちらからも話をする。会話のなかでは、あまり笑顔にならない。笑顔と無表情のバランスを考える。ずっと笑顔な人間は気持ち悪いし、人は他者が「笑顔になる」ことを喜ぶものだ。

そんなわけで仕事はある意味充足しつつある。人間はどんな環境にも適応してしまうものだ。もっとも仕事はかなりハードである。休み明けだから元気に動けているだけで、たぶん、週五日はたらけ、となったら体調を崩し始めるだろう。

いくら貯めれば外国へ移住できるのだろう、ということを考える。本当は、移住先で収入源があればよいのだが、当面は難しいだろう。しかし、日本の家賃とか、生活コストはあまりにも高いのだから、ただ生きていくだけであれば、そこまで金はかからないはずだ。

食品に消費税はかからないし、日本のあらゆる業界にある談合:価格カルテルもないはずだから、ソーセージやチーズが300円といった異常な相場もないはずだ。結婚するのか怪しい(というか多分しない)が、教育のコストも海外ではほとんど無料で、日本のように数千万円かかるということもない。もちろん高速道路も無料か、それに近い値段だ。自動車税も日本と比べればただみたいなもの。破綻することが目に見えている年金もなし。

別に、ぼくはケチなわけではない。公正・適正な価格であれば何でも払うが、だれかの私腹を肥やすために金を(つまり労働の対価:犠牲となった生活、を)払うことはうんざりなのだ。

株取引で財をなした人は、夫婦でシンガポールへ移住したのだという。「友人や家族と離れて寂しくないか」と言われることもあるというが、彼らは「そもそも人間関係が嫌いだからよかった」のだという。もともと彼らも町内会などの地域関係にうんざりしていた人だとか(なまじ金を持っているから、嫉妬の目にさらされる)。

彼らの発言にぼくはひどく共感してしまった。人と関わらなくていいならば、関わりたくはない。それは「他者とうまくコミュニケーションができないから」というような、反動的なものではない。もっと根源的に、他人が嫌なのである。他人と接するようにできていないのである。おそらくぼくは時代が違えば流浪の民だっただろう。

もちろん彼ら二人にも友人がいるはずだし、ぼくにだって今も連絡する数人の友人くらいはある。しかし、それ以上の関係はもう不要だ。「明日だれそれに会う」というだけで、ぼくの一日は破綻する。

ところで、ぼくの生活に必要なものを考えてみると、車が一台、バイクが一台、静かな一戸建て、あとは本と楽器とパソコンがあればひとまず完了ということになる。あとはスーパーマーケットとアマゾンさえあれば、何も要らない。

たぶん地下室のある海外の物件なら、生の楽器が演奏できるだろう。日本語の本を仕入れたいが、難しいかもしれない。いまさら英語を勉強しなおさなければいけないかも。それはそれで、楽しそうではある。

いったい世間の人々はなにをするためにあくせく働いているのだろう。先月は、初任給と、入社支度金と、就職祝いもろもろを合わせて、100万円近くの収入が入った。それだけでもう欲しいものは揃ってしまった。ぼくにはもう欲しいものがなくなってしまった。

人生の支出ランキング

住宅はともかく、生命保険なんていらないし、車は30万円の軽自動車で十分だし、養育費などは海外であれば実質タダだし、子どもの結婚なんて子どもが出せばいいでしょ。

なんだこのランキング。まったく理解できない。太文字にしたいくらい理解できない。

ぼくには、金の使い道がない。せいぜい、書籍代くらいか。でも図書館があれば金がかからないし。

もちろん、海外移住用の資金が必要だからぼくは労働を継続させる予定だが、日本での生活を続けるとすれば、もはや賃金の支出の大部分は税金を払うためになってしまう。

資本主義ってもうだめなんじゃないの?と思った金曜の朝だ。

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