6.01.2015

人間不適合社会

「おん身に月桂冠が現れるとき、それは幸福よりむしろ苦悩の印」ゲーテ

神経症者は、「自分は幸福であってはならない」と思い込んでいる……言われることがある。

しかし、幸福は実際、着心地の悪いシャツみたいなもので、それに馴染んでしまえば、人間は肥えた豚になってしまうのではないか。

一切皆苦を説いた仏陀は神経症者ということができるだろう。病気であることは、まぎれもなく不幸である。宗教者と精神病の関連はあるだろう。創造家と精神病の関連もまた、あるだろう。あらゆる創造の原初は統合失調症状にある・・・とだれかが言っていた。

外傷や先天畸形がとくになければ、ぼくらに狂気というのはありえない。事実、いまの精神病は、過去においては狂気ではなかったはずだ。それは社会から隠蔽されるべきものではなかった。

(例えばぼくの神経症は、ある箇所に定住せず、放浪の旅を続ける生活ならば、原理的に発生しないタイプのものだ。しかし、今では事実上だれしも「定住を強いられる」社会だから、ぼくは神経症に悩まされる。)

統合失調症はある程度真実に近い存在である。それは理性を解体しているからである。実に理性こそ迷妄である、ということは、西洋哲学が理性を武器に真理に到達しようとして、ことごとく失敗したことからも伺える。

真理とは、理性よりも狂気に近しい。真理はだれにとっても有益なものだが、現代では同時に社会的な害悪になった。そうだから、理性は持ち上げられ、狂気は排斥される。

精神病患者は幽閉され、さまざまな中枢神経系の薬を投与され、その能力を奪われる。

結局のところ、健常人は健康であるとともに、ある種の無能を示している。健康であるということは、ある限界を持っていることでもある。つまりぼくらは病人に「嫉妬」するということもあるのだ。とくに精神においては。

それは多くの名作家や音楽家のほとんどが精神的な逸脱を持っていたことからもわかるだろう。無能なひとは、薬物に頼る。大麻は統合失調症的な現象=理性の解体を生じる。だから、冴えない音楽家が薬物で逮捕されるというお決まりのパターンは、彼らが特別に反社会的であるというわけではなくて、むしろ社会的に成功したいという思いからなのである(まあ結果的にジャンキーになっているとしても)。

長らく、精神病の根本原因はわかっていない。脳内の神経伝達物質がどうのこうの、と知った顔で説明されることがあるが、肝心の薬理学的と生理学的において根本的な矛盾があるので、いまだに「定説はない」というのが現状である。

こうなると、「それは本当に病なのか?」という疑問がぬぐえない。バセドー病であれば、甲状腺ホルモン値が高いのであるし、喘息は、アレルギー反応で過度に気道が狭窄することで説明できる。では、精神の病は?

肉体の病気と、精神の病気は違う。まあこれは当たり前のことだ。身体病のゴールは、身体の異常=ある機能・組織の欠乏や過剰を抑制すること。

精神病のゴールは、社会復帰させることだ。本人が妄想のなかで幸福であればそれで良い、という風にはならない。「まともな社会人」に彼を作り変えること、これが精神科医の仕事だ。

私たちのおかげで、下手な詩を唸ったり、つまらぬコラムを書いたりしていた人間が、どうにかこうにか毎朝事務所に通い始め、結婚し、子どもをもうけた。たぶん、自分の子はサラリーマンか商売人にするだろう。(「創造と狂気」フレデリック・グロ)

ところで、社会に不適合であることは罪であるとされるが、社会が人間に不適合であることは罰せられない。社会がいびつであっても、精神病は作り変えられる。もちろん、精神科医はそれが仕事なのだからしかたがない。社会を作り変えるのは、政治家と市民の仕事だからだ。

しかし、政治家と市民が、実に政治家と市民らしい腐敗をした現代では、ますます社会不適合者が量産され、彼らは隠しきれないほど大きくなるだろう。もはや治療不可能な病人で溢れかえるだろう。彼らは市民的地位を得だすだろう。はじめはマイノリティーとして、しかし彼らの病気は感染性をもっているから、次第に社会を埋め尽くすだろう。

虚構に真理が台頭する世の中になるのかもしれない?まあこれは夢物語・・・。

ともあれぼくは精神の健康を得ようとしている。精神の健康とは、幸福であることだ。ところで、今まで幸福に裏切られ続けてきたぼくとしては、この幸福がはたして「本物」なのか、という点が重要なのだ。

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