6.13.2015

善意統治とがん細胞

この国は善意で統制される。

だから、地震が起きたときには、ただその悲惨な状況を伝えるだけだったメディアが、原発事故という国家統制の最大の危機に陥ったときには、唐突に「善意」を訴えだし、もちろん事故の報道はしたものの、同時に自衛隊の救助活動とか、ボランティア団体の姿をさかんに映すようになった。「善意」を訴えるようになった。

これをレトリックに受けとった大衆は、「ただちに影響はない」という言葉に安心し、「食べて応援」に精を出し、放射能リスクを公平(震災前の日本基準、あるいは国際的基準)に語る人を「放射脳」と罵った。

おそらく、「ただちに影響はない」と言った枝野氏は永遠に裁かれないだろう。というのも、彼は善意で発言したからだ。情報統制を行ったマスコミも、同様だ。彼らは国家的危機に対し、「国民の混乱を助長しないため」に、情報制限を行った。そして、それが結果として、多くの被爆者を生んだとしてもだ。

この国は、民主主義国家ではない。そのついでに、法治国家ですらない。このふたつの錯誤が、多くの混乱を生み出している。タテマエでは、この国は民主主義であり、法治国家であるが、あくまでタテマエであることを理解しよう。

もっとも端的なタテマエは、「自衛隊」の存在であって、左翼の大好きな「第九条」では「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。」とある。

自衛隊とはだれがどう見ても「陸海空軍その他の戦力」であって、それ以外ではない。これを否定する人はいないだろう。ぼくは自衛隊を廃せよと言うのではない。自衛隊を持つなら憲法正せ、そうでないなら憲法守れ、と、当然の民主主義的、法的な手続きを踏め、と言いたいのだ。

それを、あれこれ理由をつけて正当化する。国防という、国家のもつ最大最重要の課題で、堂々と憲法違反を行っている。土台からおかしいのだ。でも、この国はもともと法治国家でないとしたら、こんな主張は空疎でしかない。それどころか、的外れともいえるだろう。

自衛隊は国益に敵っている。他国の脅威から国民を守っているし、災害時には助けてくれる。自衛隊をなくせ、と本気で思っている人はわずかだろう。為政者と、その代弁者は言う、「それなら、自衛隊をなくせばいいのか」そうではない。

自衛隊の存在は、憲法違反である。これは否定しようがない。たしかに、このような憲法は時代錯誤だが、改正せずに違反を続けるのであれば、この国の基盤が根本から「法律違反」であることになる。それは国民にも漏出し、違法は当たり前のムードをつくりだす。

つまり、自衛隊はブラック企業であり、町内会の一端と言うことが言えるだろう。われわれの情操教育は、善意を育むことだ。それは権利意識の養成では決してない。権利意識と、善意は相容れない。西洋は善意を失い、権利意識を得た。日本はその逆だ。

すなわち、日本人に人権はない。

それを嘆いてはならない。われわれが統治されている様式の必然であるから。人権を叫ぶことは空しい。それは国家基盤を覆すという、途方もないプロセスを踏まなければ達成できないからだ。



震災直後は、日本の統治の現実が、まざまざと剥きだしになった。だからぼくなどはひどく混乱してしまった。何も考えずに享受していた生活に、まず地震の揺り動かしがおきて、そのすぐあとに放射能が振り落ちてきた。

被爆して損傷した染色体は、指数関数的に細胞増殖をする。だから、気づいたときにはもう手遅れ、ということが少なくない。

日本にとっての細胞、すなわち日本国民のなかにも、がん細胞がちらほら……(ぼくのような)。そして、それは増殖している、と言えるかもしれない。増殖したがん細胞はその宿主に機能不全を起こし、死に至らせる。

このがんを日本の統治は適切に処置できるだろうか、見物である。外科的な切除を行うか?より強力な放射線照射で死滅させるか?抗がん剤を投与するか?いずれにせよ、痛みを伴う治療だ。それとも、あやしげな民間療法にでも頼るのだろうか。

がん細胞が勝つか、善意が勝つか。ぼくには、どちらの結末がよいかわからない。なるようにしかならない、ということだろう。

0 件のコメント:

コメントを投稿