6.16.2015

奴隷国民

奴隷と市民とのちがい(モンテスキュー、ルソー……)。奴隷は主人に従う者であり、市民は法に従う者である。(「重力と恩寵」シモーヌ・ヴェイユ ちくま学芸 p254)
ここで出ているモンテスキューとルソーは、「法の精神」、「人間不平等起源論」をそれぞれ指していると解説にある。

日本をふり返ってみると、この国では、遵法精神というのは見当たらないように思う。

瑣末なことでは、決して守れない自動車の制限速度。町内会における人権侵害。企業におけるサービス残業。巨大な根本的基盤では、原発、自衛隊、ということになるだろう。

法律は、いざとなったら踏みにじることができる。「軍隊を持たない」と憲法に明記された国において、軍隊を持つことができる。

原発事故では、だれも法律的に罰を受けていない。たしかに、名目上東電には賠償責任が生じたが、その金は税金と電気料金の値上げによって補填されたので、懲罰と言えるかは微妙だ。現に、ここ二年で同社は過去最高益をあげている。おめでとう東電!

そういうわけだから、この国は、法治国家ではない。認識を改めなければならない。このことは、実のところ、ぼくにとっても大変な作業だ。四半世紀持ち続けていた幻想を捨て去らなければならないのだから。

しかし、冒頭のヴェイユによればぼくらは「市民」ではなく「奴隷」であることになる。だから、この国の民は、すべて、奴隷と言えるのかもしれない。

法の権利(と義務)を受けていない国民は、例えばひとりの教師の、ひとりの親の、ひとりの上司の、ひとりの社長の、ひとつの国家の、奴隷になる。アカハラ、パワハラ、セクハラ、虐待、経済的搾取。あらゆるハラスメント(=いじめ、嫌がらせ)は正当化される。なぜなら、相手は奴隷だから。

いじめっ子は、もっともよく順応した子だ。だから、そのいじめを罰しても、いじめっ子はすぐには反省できない。彼を襲うのは、ひとつの根本的な矛盾だ。それは国家的規模の矛盾だ。彼はこう言われているに等しい。「君のしていることは正しく、そして悪い」。

しかし、いじめっ子はいずれ、こう思うだろう。自分が正しかったのだと。なぜなら、日本社会はひとつのいじめ(主人―奴隷)関係で成り立っている社会だからだ。それが学校という特殊な場では否定されただけで……。教養なく、日本にとどまる限りは、彼はもっとも適応した人間として、春を謳歌する。高い地位と、富と、幸福に囲まれる。

「父よ、彼らをおゆるしください。かれらは何をしているのか、わからずにいるのです」ルカ二三・三四

さて、ヴェイユに戻る。
見方をかえれば、主人がたいへんやさしいこともあり、法がたいへん過酷なこともある。だが、そんなことでなにひとつ事態は変わらない。気まぐれと規則とのあいだにへだたりがあるという点に、すべてが胚胎している。
気まぐれに従うのが、どうして奴隷的な屈従になるのだろうか。その最終的な原因は、たましいと時間との関係に存する。他人の気ままに従う人は、時間の流れの上で一時停止を命じられている。次の瞬間には、何がもたらされるかを待っている(何よりも屈辱的な状況で……)。この人は、自分の時間すらも自由はできない。現在はこの人にとって、もう未来の方へ重みをかけて行けるような梃子ではないのだ。(同著・強調原文)

隷従とは気まぐれに従うことであり、極言すれば、それは魂の時間を止めることなのである……。と言ってみたけど、よくわからない。ぼくら奴隷の時間は止まってしまっているのか。時間すらも、奪われてしまったのか?

この一節はもう少し時間をかけて理解したい。

それにしても、久しぶりにいい本にあたった。ヴェイユは本物の天才だろう。ニーチェクラスの天才だと思う。これが女性だっていうんだから、興味深い。でもニーチェがルー・ザロメによって受胎されたように、(そしてソクラテスにとっての悪妻のように)「書かれたもの」の実態は、ほとんど女性が関与していると言えるのかもしれない。「男を妊娠させる女」は、たしかにいるのだろう。

仕事行く。

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