6.17.2015

すべての者が毒を飲むところ

かれらがよじ登って行くさまを見るがいい。この敏捷な猿どもが!
かれらはおたがいの頭を踏み越えてよじ登りつつ、お互いを泥沼に引きずり落とそうとする。
誰もかれもが王座につこうとする。これがかれらの狂気だ、まるで幸福が王座にあるかのように!だが王座にあるのはしばしば泥にすぎない。また王座がしばしば泥の上に乗っていることもある。(ニーチェ「ツァラトゥストラ」「新しい偶像」より)

昨日は仕事の打ち上げだった。

ぼくの単純労働もようやく終わった。飲み会で、さんざん、うまいものを食べた。一皿2000円や、3000円の料理を、みなで食べあさった。

その席で、こう言われた。

「お前からはどうもやる気が感じられない。野心はあるのか?」もちろんもっと婉曲した表現だけど、酔っ払った一人の30台女性社員に言われた。

それを始めとして、ぼくの仕事のダメだしの流れになりかけた。そこで、ちょうど、運転代行がきたのでお開きになった。助かった、と思った。せっかく豪華な料理を食べたのに、これではイーブンどころか、マイナスになってしまう。

野心、とはなにか?

それは持たねばならないものなのだろうか。たしかに、野心があればぼくはもっと仕事に熱が入るという気がする。ぼくはほぼ定時であがるし、与えられた以上の仕事をしようとは思わない。

だいたい、8.5時間の労働のなかで、ぼくは精一杯やっているのだ。ぼくは自分のペースを固守しないと潰れてしまうことを知っている。そうだから、適度な肉体的休息と、精神的安堵は、自分のタイミングで入れる。(だいたい、日本人の一人当たりGDPは、定時で帰っている外国人以下ではないか)

野心とは、金持ちになろうとか、偉くなろうとか、そういう意味であるらしい。その意味で言うのであれば、ぼくに野心はない。



どうも、日本の会社では、野心を持たねばいけないらしい。たしかに、ぼくの友人、知性的で優しかった大学の友人でさえ、会社に入って一年もすると、「俺は社長になるんだ」と豪語するのだから、そのように「教育」されていくものかもしれない。

野心で会社の構造は成り立っているのかもしれない。

考えてみると、学生時代から競争、競争の連続であった。学年で何番、全国で何番、というような、果てしない競争の連続で、それは社会に出ても変わらない。むしろ、聖域であるべき教育の現場が、資本主義的な体制に飲み込まれているといえるかもしれない。

もちろん資本主義的体制というのは、資本家を満足させるためだけでなく、現代ではもっと根本的な部分、「国防」に関与してくるのだろう。二次大戦で日本が喫した敗北は、経済的貧しさにその原因があった。

だから、ぼくらが「偉くなろう」と思って仕事や社内政治に熱を入れることは、実質的に国防に繋がっていると言えるだろう。ぼくら個々人の注力、つまりエネルギーを注ぐことによって、この国の形は成り立っている。

ぼくらが稼ごうと思うことで、この国は豊かになり、そうしてその豊かさは、国防につながる。国防とは、ぼくらの共同体的生命の維持であり、それがゆえに、絶対的教条になりうる。

絶対的教条とは、法律を超越したこの社会に漂う「空気」である。つまり、これこそ数日前からつらつらと書いている「善意」なのである。

考えてみれば、原発は国防組織だった。それは「即座に核爆弾を製造できる」というコード、外国に対する牽制だった。だから、われわれは原発を廃することは不可能なのである。原発とは、アメリカの打算とか、科学発展上の素朴な失敗ではない。ぼくらの「善意」の結晶なのである。それがたまたま爆発して、何人もの命を奪ったところで何になるだろう?「彼は正しいことをしたのだ、結果的には間違いだとしても」



なんだか話がどんどん大きくなってしまった。ただ、この二重の視点はおもしろい。片方のぼくは日本のしがない会社員だが、同時に世界=人間的視点(コモンセンス)から、ぼくの現状を眺めることができる。

このコモンセンスは本当にありがたいものだ。混乱や迷妄といったものから救い出してくれる。「日本人なら~」「社会人なら~」というようなイデオロギーに屈することがなくなる。現実をより単純に、正確に描くことができる。

ぼくは人間であって、それ以上じゃないし、それ以下でもないのである。そう自覚している以上は、ぼくは絶対的に正しい。もちろん、上に書いたようなことが誤りである可能性はあるのだが……。しかし、自分が正しいという確信は、もう揺るがないような気がする。

そうだから、ぼくが仕事に熱中できないことも、野心をもたないことも、正しいのである。

 善人も悪人も、すべての者が毒を飲むところ、それを私は国家と呼ぶ。善人も悪人も、すべてがおのれ自身を失うところ、それが国家である。すべての人間の緩慢なる自殺、それが「生きがい」と呼ばれるところ、それが国家である。(同書同章)

 善人も悪人も、すべての者が毒を飲むところ、それを私は会社と呼ぶ。善人も悪人も、すべてがおのれ自身を失うところ、それが会社である。すべての人間の緩慢なる自殺、それが「やりがい」と呼ばれるところ、それが会社である。


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