6.19.2015

服従と献身

なんだか弛緩した日々のようで、身体が落ちつかない。

労働がはっきりと責苦の形をとるときは、まだいいのかもしれない。労働がやさしく、寛容になってしまうと、その毒性は一層あがる。

人間の自由意志をつぶすには、彼を縛りつける必要はない。偽の、形骸化した自由を与えるだけで十分である。

ただ人間だけが、人間を道具化することができる。
抑圧もある段階に他すると、権力者は必然的にその奴隷たちから、あがめ奉られるようになる。そのわけは、他人の玩弄物となって、完全な強制に服していると考えるのは、ひとりの人間にとって堪えられないことだからである。そこで、強制からまぬがれるためのあらゆる手段も奪われているとなれば、もはやあとは、強制的に自分に課されてくるひとつびとつの事柄を、自分が自発的に実行しているのだと自分で自分に言い含めること、言いかえれば、服従献身にすりかえること以外に手立てはない。そしてどうかすると、命じられているよりも以上のことまで果たそうと努力するのであるが、その苦しみは前ほどつらくはないのである。それはちょうど、子どもたちが罰として加えられたら辛抱できないような苦痛でも、遊んでいるときなら、笑いながらじっとこらえているのと同じ現象によるのである。このようなまわり道をしながら、隷属はたましいを堕落させて行くのである。(「重力と恩寵」ヴェイユ 強調原文)

「服従から献身へのすりかえ」 は実に日本的であって、例えば本来は行政が担うべき市民サービスを代行する「町内会」という組織も、労働生産性を下げるだけのサービス残業を行うブラック企業の社員も、その根本的な動機は、はや服従ではなく、「献身」となっている。

実質的に、日系企業と、町内会のような組織は、支配を国民に浸透させるためのシステムである。日本の大企業は教育機関である、と諸外国からよく指摘される。

新入社員はみんな一斉に箒を手に道路掃除をさせられ、冷たい川につかり、あるいは山を行進して登らされ、屈辱的で、心身がへとへとになるようなことをやらされる。集団での徹底的な訓練や、互いに告白し合ったりと、文化人類学者ならこれぞ浄化、イニシエーションの儀式であると大喜びするような訓練の数々には、重要な目的がある。つまり軍隊の新兵訓練と同じで、個人の意思を打ち砕こう押しているわけだ。(「いまだ人間を幸福にしない日本というシステム」カレル・ヴァン・ウォルフレン)

ぼくらは抑圧的な生活のなかで、しだいしだいに、自分が外部の圧力に服従しているのでなく、主体的な「善意」でしていると思い込むようになる。

ところで、善意とは自発的行動以外の何物でもない。自分がしたいからしているのだ、したがって、これは自由意志でしているのだ、と思うようになること、この服従から献身=善意への移行に、ひとびとは気づかないうちに慣れてくる。

善意は浸潤する。それは善いことだからだ。だから、町内会の重鎮は、みな狂っている。残業を一日6,7時間行う人々もまた、狂っている。

彼らの行為の本質は「ただ働き」である。ところで、ただ働きはふたつの意味しかもたない。ひとつは「ボランティア」であり、もうひとつは「奴隷労働」である。

彼らは善意を振りまくつもりで、抑圧を振りまく。これこそもっともたちの悪い、魂の腐敗である。このようなゴミ虫は見つけしだい徹底的に叩き潰すべきだが、しかしゴミ虫の数の方が圧倒的に多くなってしまった。

「権力者は必然的にその奴隷たちから、あがめ奉られるようになる」。ところが、権力者はすでにもう見えなくなっている(天皇が最後の偶像であった)。企業経営者も、もはや権力者とは言いがたい。彼らもまた抑圧された国民でしかない。だから、ぼくらは漠然と「愛国心」とか「国家に対する忠誠」と言うしかなくなる。日本的な愛国心とは、たいていこのような曖昧な、代償的なものである。

E・フロムの「自由からの逃走」で指摘されていたことは、ファシズムという強硬的な支配にもっとも喜び勇んで迎合したのが、中産階級の下層だったということだった。上流階級も、下流も、ファシズムには否定的だった。しかし、中産階級の下層という、もっとも抑圧的な立場(下流は諦められるが、中産階級はそれも許されない)は、ファシズムに迎合した。それはおそらく彼らがファシズムの基盤である「善意」と親和性が高かったからだろう。

ファシズムは、強ばった、陰惨な政治ではない。実のところ、笑顔の統治である。「もはや笑わぬ者のいないこと」、これがファシズムの目指す理想である。

ただひとつの救いの道は、強制されているという堪えられない思いを、献身といった幻想でおきかえるのでなく、必然と言う概念できかえるところにある。(同書同章)

ヴェイユによると、このようになる。結局、抑圧からは逃れられないのだから、運命を享受することしかないのだろう。ぼくらはすでに自由のはずである。ただ迷妄のみが、その事実を覆い隠す。内的自由をうち捨てないこと。


今日はかっこつけて、小難しく書いたが、まったく筋が通らない。毎日、朝の時間をかけて書いてはいるけど、時間的制約もあるし、まだまだ勉強不足で、表現も稚拙である。

もっと、勉強をしたいと思う。ヴェイユを読むと、よい勉強になると思う。勉強というか、魂の純化というか、霊性の鍛錬というべきか・・・。

それにしても、いま自分のしていること、考えていることが、はたして正しいのか、わからない。いまのぼくは、いくら他人に「それはバカげている」と言われても、跳ねつけるようにしている。独りで、書物と、ぼく個人にやってくる現象を吟味して、それでいろいろと書いている。

そうだから、今のぼくが間違っているとすれば、それに気づくことができるのは、未来の自分でしかない。

しかし、未来のぼくは、もう今のぼくではないのだから、今のぼくのことを正しく認識することはできない。だから、人間は、その都度正しいのかもしれない。
「ぼくたちの心の中にだれかがいて、それがなんでも知っている、ということを心得ておくのは、とてもいいことだよ」(「デミアン」ヘッセ)

内的神性のようなものが存在するとすれば、ただ孤独のみが、神へ至る道になるだろうという気がする。ところが、日常のあらゆる雑事が、ぼくを孤独から引き剥がす。ぼく自身が、孤独に恐怖し、そこにじっとしていられないということもある。孤独のアマチュア。

現代は、孤独の許されない社会だ。人間が増えすぎて、どこへ行っても、人がいるのだから。やはり、人口密度の少ない北欧あたりに移住したい、という想いが消えない。


昨日から、名前を変えてみた。黒崎潮(くろさき しお)という名前である。名前なんてどうでもいいのだから、拘る必要もないのだが、仕事中にこの響きがぽんと頭に出てきて、とても気に入ったので、この名前にすることにした。

御厨鉄は、ペンネームだったが、その名前で現実に呼ばれることもなんどかあった。今思うと、良い思い出である。

1 件のコメント:

  1. 御厨鉄(犬)→黒崎潮(猫)
    良くも悪くも印象が変わったので、
    名前は大事なのだと思うな。フローレン

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