6.02.2015

脂肪のかたまり

ぼくの書いていることが日によって違っていたり、矛盾しているように思われるのは、それはしかたのないことだ。ぼく自身いまの考えに納得できているわけではない。いままで書かれたことに、大した執着もない。事実、執着するほどの価値はないのだし、そもそもたいして読まれていない。

散文を書くことで、ぼくの精神はいくらか和らぐ。ぼくの精神はやっと居場所を見つける。このような感情になれるのは、ただ文章を書いているときと、楽器で遊んでいるときだけだ。

なにもかも間違っているのではないか、という不安はある。社会はそのような不安をつねに与える。社会それ自体は信頼の置けるものではない。信じていたものが、簡単に裏切られる。世の中には「社会的」な人間がいる、社会を信用し、心を託すひとびとがいる、この巨像は絶対に倒れないのだ、と信じる人が。

でもまあ、いまの日本社会でそれはどうなのか、と思う。だれでもグーグル検索すれば日本の異常点が見えてくる。単一言語で単一民族の島国だからって、やりたい放題にぼくらは支配されている。そんなことは少し検索すればだれでもわかるようになった。

善良な社会というイメージは打ち破られて、民は国家に不信を抱くようになった。その想念をツギハギするために日本礼賛番組がやられているけど、そんなものにほとんど効果がないことは、やっている方もわかっているはずだろう。それは東京オリンピックなど開催したところで日本は沈む運命にあるのと同じくらい自明だ。

ともあれ書くことと、音楽は、ぼくを陶酔に導く。それはただ自己完結である限りにおいて、陶酔的なのである。この毎日の記述も、たしかに他者の影響は少しあるが、そこまで深いものではない。そんで、音楽の方は完全に自己満足である。

それでも、他者の目というのはどうしても意識する。そりゃそうだ。もう他者の目を意識することがないとすれば、それは完全に狂人だ。しかし、他者の目はなにかといえば、特定の個人ではない。まあ結局は大澤真幸の提示した「超越的他者」という概念になるだろう。

われわれは常に見られている。キリスト者であれば神の目、日本人であれば世間体ということになるだろう。そうだから、ぼくが孤独に音楽をやっているときも、それは完全に断絶された孤独ではないのである。

音はだれにも届かず、ぼくの姿もだれにも見られることはないが、しかしぼくは見られていて、音はだれかに届いているのである。

これは矛盾だが、しかし、ぼくの行動を説明する。他者の目がなくなれば、ぼくは楽器をやることもなくなるだろう。同時に、この文章にしても、読まれることはないが、読まれているということができるのかもしれない?いや、最近はコメントが多いから、明白に読まれていることを意識せざるを得ないのだが。

最近仕事の関係で文章を書くことがあるが、きれいな文章とか、良い文章と言われる。まあお世辞なのかもしれないが、それにしても、こう何年もだらだらと書き溜めていれば、文章力もついていくようである。

初めてこのブログに書いたのは2012年だが、そのときにあるように「ただ書くこと」が文章上達の術であることは間違いないだろう。というかこれはトートロジーと言ってもいいくらい自明だ。乗馬がうまくなりたいのであれば、馬に乗ればいいのだ。

文章力、これは「コミュ力」みたいに気持ち悪い言葉なのだが、ともあれ書くということを続けていれば、流水が石をなめらかにしていくように、勝手に洗練されていくもののようだ。

ぼくは別にきれいな文章を書こうとか、巧みな文章を書こうという気持ちは一切持たない、そのような気分は、絶対に文章を損なうからだ。自然であること、つまりは実直さこそがすべてだと思う。

ところで、仕事で書くのとは違って、少なくともここにあげている文章はひどいものだと思う。昨日など、まるで何を書いているのかわからない。昔からそうなのだが、ぼくの文章は読まれることを拒絶しているようなところがある。

それでも最近は少しましになってきたようだ。

生活の少しの安定が、ぼくをある程度解放している。ぼくのお腹についた贅肉が、ぼくの精神を安定させているようだ。就職して体重が3kgぐらい増えた。皮と筋肉だけだったぼくの腹に、1cmばかりの肉がついたことになる。この肉は、ぼくの腑を守る。少しの冷えや刺激であれば耐えられる。すぐに下痢したり、風邪をひくということがなくなった。

こうしたことの影響が、文章に出ている、ということができるだろう。こうした生活の少しの変化が、ついた脂肪が、日常の喪失体験よりもずっと、ぼくの文章や音楽に影響を与えるもののようだ。

1 件のコメント:

  1. また遊びに来たよ。それから、名前はフローレンにします。
    ところで私がここに遊びに来る理由は、あなたの書く文章に魅力を感じているからだよ。
    「魅力」のないものは生きていけない。だからみんな、何かしらの魅力を持っている。
    文章力=魅力的な文章、ではないからね。また、魅力的な文章=魅力的な筆者、でもないよ。
    イコールの場合もあるけどね。とにかく、あなたの「文章」「感性」「センス」は魅力があるよ。

    >少なくともここにあげている文章はひどいものだと思う。

    私はそれが好き。仕事用のきれいで良い文章には魅力を感じないのかも。
    また来るね。

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