6.23.2015

幸福な日々

世の中のものはなんでも我慢できる。幸福な日の連続だけは我慢できない。ゲーテ

精神の退廃を感じる。もうまじめに何事を捉えようとは思わなくなってくる。ぼくの唯一の取り柄だったクソまじめさも、だいぶ抑制されている。

現在は、幸福である。食事と運動、長すぎない労働時間というのは、まことに人を健康にするもののようだ。

最近、弁当を作るようになった。自転車通勤するようになった。これらの生活の変化、ある意味での豊かさが、ぼくの肉体に余剰を与える。

病苦が幸福の最大の障害であるように、健康とは、幸福の最大の要因であるらしい。ぼくもまた、肉体が健康になり、幸福になってしまった。

ぼくはどこにも定住することができない。田舎は、都市部より少しましだが、それでも、今度は日本から抜け出そうと考えている。この国は、知性的には退廃している。文化的には死滅している。

村上春樹の精神は北欧に置かれているし、内田光子はイギリス人だ。草間彌生はニューヨーク、岡本太郎はフランス。このように、日本の優れた才能は、おおむね輸入品である。日本的抑圧を離れたところにしか、まっとうな芸術は生まれない、という気がする。

ともあれ、世界旅行に向けて、いろいろ考えを馳せる。もっとも、旅行などする必要はないのだ。ただ究極的にぼくが求めるのは、ある種の静謐と、完全な孤独なのだから。それは、よく鍛錬すれば、猥雑な日本の都市部でも可能なことだろう。

ぼくのある種の未熟さが、外国へと駆り立てる。結局、外国には定住できないだろうという気がする。ぼくはどこにでも定住できないのだ。それは「幸福」であってもだ。

人間は幸福になってしまえば、今度は退屈に悩まされる、とはカントだかの言である。凡庸と狂気、快楽と苦痛、幸福と不幸。成功と失敗。そういえば、これらは同一のものである。
アルジュナよ、執着を捨て、成功と不成功を平等(同一)のものと見て、ヨーガに立脚して諸々の行為をせよ。(ギーター)

どちらかに救いを求めないこと。

今が幸福でも、不幸でも、それは必然である。不幸なときには、幸福に救いを求め、幸福なときにはかえって不幸に郷愁が沸くものである。

しかし、不幸を絶対的不幸として、享受すること。これが必然を愛すること、運命愛である。不幸なときには、幸福なく、幸福なときには、不幸はないのだから。それはマーヤーでしかない。

というような……朝から宗教的な気分になってしまった。昔のぼくは、ここまで宗教が好きではなかった。でも、宗教はいいものだ。救いになるものだ。もっとも、個人的レベルの信仰に限る。集団は常に間違っているからだ。その意味では国家神道もカトリックも創価学会も変わらない。

最近は、うわついて、まともなことが書けない。そういう時期もあるのかもしれない。人間は、根本的に、怒らなければならない。「否」を発しなければならない。頭ではわかっているが、つかの間の幸福を享受すること、これを自分にときには許してやりたいとも思う。それは、実のところ、不幸を愛する行為でもある。幸福は長持ちしないと、そんな当たり前のことは、百も承知だからだ。



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