6.27.2015

科学と進歩について

人間は進歩しているのだろうか。科学史で見れば、人間は進歩している、ということができるだろう。一方では、人間はいつでも変わらない、という見方もできる。古代に比べて人間は、退歩している、腐敗している、そのような見方もある。

いずれにせよ、ぼくはとしては中立的な立場をとりたいと考える。人間はいつだって人間だったのだし、これからも人間なのだと。それは潮の満ち引きにも似た永劫性だ。

人間が進歩している、そのように考えることはできる。ぼくらはゲーテやドフトエフスキーのような文学に触れることができるし、古代では、キリストや仏陀のような宗教思想もなかった。だいたい、自動車やルンバ、ドラム式洗濯機といったものは、科学の膨大な蓄積によって築き上げられている。

科学はその性質上進歩し、退歩はしない。それが科学の本質だ。

以前、金は詐術だ、ということを書いた。あのときは、学生時代住んでいたアパートの不動産会社から不当な退去費用を請求されたので、ちょっとした係争中なのであった。ぼくが「埒があかないので、弁護士に相談する」と言うと、一転して「書類に不備が見つかりました」と言い出し始めた。

以上の経験的事実からしても、こういうことが言える。金は詐術だ。

これと同じような密接な関係が科学にも見つけることができる。科学の性質はまず進歩であって、それ以外ではない。科学が科学である条件は、進歩なのであり、進歩のない科学は存在しない。

だから、科学の全盛期の20世紀ヨーロッパにおいて、ダーウィニズムが世の中の主流となったのは、そういう事情による。人々が大事に愛で抱きかかえるのは、もはや「徳」ではなかったし、「宗教」でもなかった。だから、なにかにすがらないと夜も眠れない人類は、「科学」を抱き枕にすることにした。

こうして、人々は「進歩」するようになった。

実のところ、人々は、抱きかかえられるのであれば何でもいいのである。人々には宗教が必要なのではない。何か絶対的なものを抱いていなければ生きていけないのである。かつては宗教だったし、今では科学なのだ。ダーウィニズムは、その科学における宗教的役割を担っている。

「人類の全般的進歩に与する」か。シュレーディンガーによれば、すべての人間が、無意識的にでも、その「進歩」に貢献しているのだという。それというのも、進歩はあまりにゆるやかだから、一個の人生の内部において、それに貢献していると気づくことはないこともあるとか。

こうした進歩思想は、たしかに、人類の個別の生を考える上で、有用なものであると思う。生物学的に人類を考察したときには、これが正しいように感じる。

ところで、芸術や、宗教や、徳は、何と関係するのだろう。徳は進歩とは無縁だろう。多分に退歩がありうる。芸術は、科学と似たような系譜を辿っているように感じる。宗教はといえば、時間軸そのものを否定しているように思える。

科学とは何ぞや?という考察を深めていきたい。科学を解くことが、現代の社会を読み解くことであると思う。



真理は自己に内在する、という事実に、最近は懐疑的になってしまった。自分は凡庸で、脆弱な人間であり、倫理的には優れておらず、少し考えてはみるものの、何も行動はせず、肉を食い、油を飲み、愉悦に満ちた生活を送っている。

一年前くらいのぼくは貴族主義的であった、それは貧困に満ちた生活のなかだったから、自分をそのように認めることは、よかったのだ。ところが、日本という国の全体が、今は貧しくなっており、過重労働に人々があえいでいる中、自分だけが高給をとり、自由に、楽しく生きている……。

このような現実が、思った以上にぼくの身を切り裂くようだ。よくもまあ、世の中の金持ちたちは、安逸のなかで暮らせるものだと思う。彼らは、生まれたときからそうだから、疑問に思わないのかもしれない。ぼくはと言えば、片田舎の、裕福ではない家庭に生まれたから、自分の境遇が、あまり信じられないのである。

不幸のなかで、一人だけ幸福であることは、結局、不幸なのだ。そもそも、ぼくはそのようであってはならないのだ。ぼくは、全員が幸福であるときに、ひとり、不幸でなければならない。ぼくはもう、遺伝子的に、そういう宿命を受けているのだ。

ところが、日本においては、不幸がますます巨大に膨れあがっている。人々は、悩み、苦しみ、そのなかで知恵を見つけ出しているようだ。実に苦しみこそ人を賢くする。だから、奴隷にある程度の幸福を与えることは、つねに大切なことなのだ。現代の社会構造は、その基本的な掟を忘れてしまったようだ。

ともあれ、ぼくは、幸福であることで、また不幸を味わってもいる。笑い、喜び、楽しみ、飛び上がる、そのようなことに疑問を抱かない人間であればよかったと、常々思う。

ぼくは苦しみ抜いたから、苦しむことから逃げる術に長けている。だから、ぼくはある程度は幸福に生きているのだ。しかし、自分の不幸から抜け出したあとには、他者の不幸がぼくを苦しめるものだとは、ついぞ知らなかったのである。

この新しい不幸に、ぼくはどう行動すればよいのか、考える。今日は自転車で、また、100kmくらい走るつもりである。おにぎりを3個、バッグに入れて、日焼け止めを塗って、ただ走る。走っている間は、上の疑問を、考えてみようと思う。




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