6.28.2015

隷属、競争、嫉妬、個人。

結局、この国の民は奴隷なのかもしれないと考える。

確かに、ぼくらは自由に愉しく生きているけども、それは奴隷であることの否定にはならない。これらは両立する。自分が自由であり、愉しく生きていると思うこと、これは奴隷にも可能なのだ。

ぼくらの生は奪われている。もちろんある程度であれば、問題ないと考える人の方が多いのかもしれない。世の中、多かれ少なかれ、そういうことはあるものだ、と。こういう人は、不動産屋の理不尽な退去費用にも、過剰に高い高速料金にも、不必要な交通違反の罰金にも、とくに抗議の声をあげることなく、支払ってしまう。

こういう、事なかれ主義の人物が、この世の大部分を占めているらしい。これは究極的なエゴイズムだ。たとえば、原付の30km/h制限は時代遅れだから撤廃すべきだ、と主張しようとする。すると、人々はこう言うのだ。「俺は二輪免許を持っているから関係ない。嫌なら免許を取ればいい」。

しかし、二輪免許は費用も時間もかかるし(たぶん国際比較したらコストは世界一だろう)、仕事上50ccの原付に乗らなければならない人は一定数存在する。しまいには、こういう主張をする人は、原付にしか乗れない貧乏人に違いない、と決め付けられ、実際のところぼくは大型二輪免許を持っているのだが、「貧乏人=自己責任」であるから、ひとりの失敗した人間の戯言として、聞く耳をもたれないということが往々にある。

この手の人々は、公共心がまるで育たなかったのである。彼の頭のなかでは、自己しかない。自分のことしか考えないのである。他者が不当な制度によって苦しめられているから、救いの手を差し伸べようとは一切考えない。自分がその制度から解放されているから、それでよい、と、本当に考えている。

実にこういう人間が日本では多いようだ。海外ではどうなのかは知らないが、原付30km/h制限のような、警察の利益のためだけに存在するような不当な制度は聞いたことがないから、市民が公共心を持ち、法的な主体性、責任感をある程度は共有しているのではないかと想像する。

上のような、悪法に対して過剰に適応してしまった人間たちは、不当な政治的な圧力のすべてに対し、屈従することになる。これもしょうがないことだ。彼らにとって、日本とは正当な法の支配する、自由な国である。だから、この完全な国でだれかが苦しむことは自己責任なのである。

しかしまあ、これほど為政者にとって都合のいい話はない。

奴隷はあまりにも増えすぎたから、その中で競争させることにした。競争に負けた無能な奴隷は、自分の無力さを呪うようになった。競争に勝った奴隷は、自分に誇りを持つようになった。このようにしておけば、主人は安泰である。彼らは自己に固執するようになる。自分の行為が、自分の境遇を生んだのだと、信じるようになる。奴隷は、次第に、「自分が人生の主人だ」と思うようになる。

競争という教義が、実に人間のまともな精神を狂わせるらしい。だれかを蹴落とし、だれかに蹴落とされる人生のなかで、絶対的価値観は破壊され、他者との相対的関係にのみ目がいくようになる。

ぼくはといえば、だから、オリンピックは大嫌いである。ぼくは水泳が好きだし、自転車やバイクで旅するのも好きだが、だれかより速く泳ごう・走ろうとは思わない。オリンピックは、行為と目的の逆転である。槍投げは、本来獲物をしとめるための技術だが、今では獲物はどこにもなく、地面に突きたてて、それを全世界が拍手喝采しているのだから、これは一種の狂気である。まあ「祭典」とはつねに狂気じみたものではある。

競争化社会とは、相対的価値観の蔓延である。それは人間を痴愚化せるものである。だから、国民をよく隷従させるには、効果的手法であるらしい。人々は、年収を比較したり、社会的地位を比べたり、何かの賞をとるために、切磋琢磨する。このようなくだらない感情は、常識的に考えてみれば、人生の時間をかけるためには値しないことだし、ほとんどの人は多かれ少なかれそのことを知っているとは思うのだが、それでもやめられない。人は他者との相対化に一生懸命になる。生涯を捧げることになる。ついぞ、人生の意味など考える暇はなくなる。

実のところ、人間にたいした違いはない。そうだから、ぼくらは天才的な技巧を持つ画家や音楽家に共鳴できるのである(思想家でもよい)。彼らがもしもぼくらとぜんぜん違っていて、遠く離れているのであれば、彼らの行為とその結果に共感することはできないだろう。実際には、それとは逆に、優れた作品を前にすると生まれるのは強烈な共感である。

「巧くやろう」「驚かせよう」と考えるプロの演奏家は(一定レベル以上であれば)いない。自然に、無私とならなければ聞くに堪えない愚劣な演奏になることはわかりきっているからである。無私、とは競争心の欠如である。差異の消滅であり、全人類との調和である。

人間に差異はない。差異は迷妄である。差異は、第三者の作りだしたものである。「彼は有能だが、お前は無能だ」と言われたときに、人の心に邪悪が芽生える。嫉妬の感情である。競争社会は「嫉妬」で人々を絡めとろうとする。このような感情を、注意深く、取り除いてやらなければならない。

とここまで書いて、「嫉妬」という言葉に、興味を感じてきた。本の一冊でも読んでみたい。嫉妬とは、差異への執着である。差異はどこからきたのだろうか。それは個人と個人の関係というよりは、第三者的な「社会」からきていると考えることができる。なぜならば、世界に二人の人間しかいなければ、彼に嫉妬することはないからである。

人は第三者的視点に立って、自己と他者を比較する。嫉妬とは実に社会的な感情であるらしい。母親にとっての自己と兄弟。教師にとっての自己と他の生徒。恋人にとっての自己と他の男。この第三者的な要素が嫉妬の感情には不可欠なのである。

嫉妬の感情は、社会の高度化にともなって深化してきたのか、それとも原始社会には存在しないのか。たぶん、原始社会では「個」という概念そのものが発達していないので、嫉妬の感情もなかっただろうとは思う。

集団の心理とは最古の人間心理である、われわれはそう結論づけねばならない。集団の残渣をすべて軽視し、その上で個人心理としてわれわれが孤立させたものとは、もともとの集団心理から、後になってようやく徐々に、いわば依然として一部だけその輪郭を浮かび上がらせたものなのだ。(フロイト)

フロイトを驚嘆させたこの真実が、ここに適応できることになる。集団とは個人が集まって形成されたのではない。集団がまずあって、個人が生まれたのである。

だから個人という概念は、シュレーディンガーが否定している。つまり我々が固有のものだと思っている思考や意識は、実は他者と共有されているのだ、と彼は主張している。これは上のフロイトの集団真理についての考察や、ユングの潜在意識論とも共通しているし、インド哲学にも(多分)通じるものである。

まあぼく自身を考えてみても、孤独が好きだ、他人が嫌いだ、なんて言いながら、考えていることはここでこうして吐露している。ぼくは何かを吐き出さずにはいられないのだ。外向的な人間であれば喋ることによって、内気なぼくにとってはこうしてブログに書き留めるのである。とにかく人は自分だけの思想を黙っていることができない。なんらかの方法で、吐露せざるをえない。結果だけを見れば、意識は共有されるのだ。

この、最終的には必ず達成される意識の共有を考えると、人間固有の思想など、ないのかもしれない。ぼくらの考え……革新的だと思った思想も含めて、思想の大部分が、ニーチェや、マルクスに還元できたりするのは、この事情によるものかもしれない。

とかまあ散漫に考えていたら、頭が痛くなってきたので、今日は久しぶりにバイクに乗って散策してこようと思う。

2 件のコメント:

  1.  私はこういう潜在的意識の共有という話に凄く興味があります。我々の認識できないレベルで意識の共有がなされているならば、この不毛で残酷で幸福な人生にもある種の意図的な意味付けがあるのではないかと考えてしまうのです。差異を認識してしまうのは、アダムとエヴァの智恵の実のように、人類が共通して抱える罪です。しかし、差のない完璧な世界はそもそも無なのではないか、とも思うのです。

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  2. ニーチェが言ったように、個人とはすぐれて近代的な概念のようです。実はこの変遷(人々の個人主義化)は、書籍が朗読によってではなく、個人各々で読むようになって変化していったと何かで読んだことがあります(そして小説の誕生)。

    もともと、人は「種の感覚」と密接に生きていたが、何らかのはたらき(たぶん政治的な)によって切り離されているのかもしれません。原始的な部族社会にはまだそのような感覚が生きていますが、われわれはもうそのような生活に戻ることは難しいでしょう。ですから「智慧の実」「原罪」という表現は的を射ていると思います。

    そうして、その原始回帰は我々「固有」の思考を喪失することでもあります。それはたしかに無に近いかもしれませんね。原始部族は何も思考せずに生きているように見えます。ぼくらにとってそれは幸福のように見えますが、恐ろしいことでもあります。

    まあ、宙ぶらりんなんでしょうね、人類は。

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