6.29.2015

戦争後遺症

ある種の危険と、遊戯をともなった、陶酔的な感動はなくなって、静かな幸福が日常を占めるようになってしまった。

バイクで遊び、自転車で遊び、ぼくは孤独にあっても、山、川、海へ行き、自然と戯れることで、心身の充足を得ているようだ。

田舎の生活は、ぼくをたまには苦しめる。

ひとつに、女性のセンスが悪いこと。本当に、美人というか、自分に自信をもっていいレベルの女性は、例外なくケバケバしく飾り立てている。茶髪の髪に、厚ぼったい白化粧、濃いアイラインは醜悪だ。

もうひとつ、人々の文化レベルが低いこと。これは、日本という中央集権国家の影響かもしれない。地方人は、あきらかにバカではないけど、テレビによる痴愚化のせいか、人々の知性は幼児化されている。

人々はJ-POPを聴き、ミニバンに憧れ、ドンキホーテ、イオン……。こういった生活様式は、今はマイルドヤンキーと呼ばれているが、彼らは、まことに効率の良い消費者として、奴隷を再生産する働きを担っている。

実のところ、マイルドヤンキーと呼ばれる兵隊たちが、日本経済を動かしている。

ぼくらはいまだ一億総玉砕の火の玉精神を抱えているらしく、その実情は、都会よりも田舎に住んでいると如実に見ることができる。兵士は、精神を捨てなければならない。自由や、平等に対する憧れは禁忌である。

「国防」というこの呪いが、日本を支配しているらしい。それは中国という大国が隣り合っているせいもあるし、アメリカに原爆を二度も落とされたトラウマが、民族レベルで染み付いているせいかもしれない。

ぼくらは恐怖にかりたてられて生きている。老後の心配とか、リストラの心配で、電車に飛び込む人もいる。実際のところ、日本も最低限の社会保障はあるのだから、失職したところで死ぬわけではない。

しかし、「経済的な敗北が死を意味する」というトラウマは、日本が強く経験したことであるから、人々が電車に飛び込むのは、その追体験といえるのかもしれない。日本はいまだ戦争後遺症の最中で、人々の精神を蝕んでいる。

地政学的に、日本という場所は危険なのだろう。いまや二大大国となったアメリカと中国に挟まれた危機感と緊張感で、この国は支配されているように思う。当然ながら、韓国も、北朝鮮も、同様の緊張感を抱いているだろう。

右翼、左翼という言葉が、文字通り右(アメリカ)か左(中国)に付くか、というようになっている。日本の右翼活動家も、左翼活動家も、表面的なレベルではこの単純な隷属願望にとらわれているようだ。

沖縄の市民と政府の対立は、米中の冷戦におけるもっともHotな戦場だとして海外メディアは注目しているようである。多くの左翼的な知識人が沖縄を擁護しているが、米中の冷戦というマクロな実情を前提としているのかはわからない。

もっとも、米中の関係はいまのところ良好だが、良好な国家間でも戦争は起きるものだ。戦争という揺り動かしで、大儲けする人々がいる。日本(韓国、北朝鮮)が戦場になって、米中両者が痛みなく利益を得るような、そんな構図の戦争が起きそうだ。朝鮮戦争で高度経済成長を達成した因果が、かえってくるのかもしれない。

こういう無責任な予測を立てることは、楽しいことだ。根拠など何もない。ただ、今年はどうもキナ臭くて仕方がない。去年の年越しの瞬間は、ものすごい突風が吹いていたことを思い出す。あのように風の強い大晦日はかつてなかったように思う。

よく考えたら、このように、びくびくと悲観的な予測を立てるのも、ひとつの戦争後遺症かもしれない。今日は月曜日、仕事は嫌だけど、我慢しよう。

4 件のコメント:

  1.  随分前にコスモポリタン(世界市民)というワードが飛び交っていましたが、今それをいう人はあまり見掛けなくなりました。国や文化、宗教という垣根を越えて、人類としての発展と自由に貢献していこう、という感じでしょうか。
     このような大きなスケールで考えてみると、障壁になるのは、人類の差異の欲望に関する側面であり、皮肉にもマイルドヤンキーのような、文化的に拘りもなく大衆化されていく人種の方が、世界市民として相応しいと思うのです。ハリウッドなどで最近は、地球規模の天変地異や、異星人の襲来、機械の暴走など、いわゆるパブリックエネミーを設定して、それを殲滅するという構造が見られます。こうした単純な構造を真剣に捉える幼児化した人類は、まさにエデンないしは胎児に戻ろうとする様にも見えてきます。それは、私には異様に感じられるのですが....。

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  2. 国家の目指す方向が、最大多数の最大幸福であるならば、田舎におけるマイルドヤンキーとか、都市部における量産型大学生のような大衆的大衆は、幸福の総量によく貢献している理想的な市民でしょうね。彼らが疎外感や憂鬱に苦しんだり、その果てに自殺するような「不幸」は、ちょっと想像できません。

    ですから、これらの存在は必然のように感じます。すべての人々が社会的要請に反抗できるわけではないし、大部分の人は、何も考えず生きていけるのであればそうしたいのです。それが国家の承認する幸福ならなおさらです。それが偽の幸福だとしても、その事実が隠されてしまえば、とりあえず人は満足するでしょう。

    大衆は不可解な存在ですが、ル・ボンに始まり、100年来研究が続けられているようです。古典的な大衆論に目を通してもおもしろいと思います。

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  3.  毎回、様々な視点から社会や個人の問題について、日常という身近な所を起点に鋭い考察をされていて感服致します。また、毎回コメントに丁寧な返事を下さいましてありがとうございます。さて、大衆と衆愚という観点で考えた場合、ある意味理想的な市民の象徴として、都市部の量産化大学生、マイルドヤンキーといった(個別具体的な考察はおくとして)存在があるわけですが、こうした社会的要請や、パッケージ化された欲望に忠実な存在になぜ辟易するのか。私見から述べさせて頂けば、「他者受容」もっと簡易に言えば思いやりや想像力となるでしょうか、が足りないように感じるがからだと考えております。個々の知的能力や財力、地位などの差というより、そういったものに対する姿勢に問題があるのではないかと思うのです。しかし、何故そう感じてしまうのか。ということについては私にはまだこれといった考察はありませんが。

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  4. くだらないことを書いているだけです、読者がいるという事実に毎回驚いています。
    大衆が能動的であることはありません、思考することもありません。彼らはつねに受動的です。だから彼らを憎むことは不可能なのです。彼らに倫理感が欠如しているとしても、それは彼らの責任ではないし、彼らの「問題」ではないのです。
    憎むとすれば、それはもっと根本的な対象でなければならないとぼくは考えています。

    興味深いのは、「大衆」が誕生したのは近代以降、つまり産業革命(と市民革命)以降だということです。昔は存在しなかったものが、なぜ今台頭したのか、その原因を考えることも理解の一助になるかと思います。(もっとも、「世の中の大半はバカだ」みたいなことは、昔の哲学者も言っていましたが。)

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