6.09.2015

友情と嗅覚

清水真木というニーチェ研究者が好きで、その著書「友情を疑う」では、ルソーやキケロを例にあげ友情という概念がいかに哲学者に扱われてきたかいわば友情の系譜学というべき内容で古代ローマ・ギリシャからフランス革命前後、そして現代日本までを友情という概念で紐といている。

カント以前以降の友情概念の対比はなるほどぼくにも美しい公理であると思う。カント以前の哲学者は友情を「引力」だと決め付けていた。ところがこれに「斥力」を発見したのがカントである。引力とは愛であり、斥力は尊敬であると。他者を尊敬するということは、遠ざけることであるということだ。例えば、ぼくらが「敬語」を使うとき、それはある距離感を示していることになる。

引力だけの関係では人間関係はうまくいかないだろう。ルソーの友情概念は、他者との完全な同化であった。しかしルソーが実際的にその友人関係が可能だったのは生涯でただ一人であったことからもわかるように(そして相手が夭折したことにより可能だったように)、まずもって普通の人間には不可能であるし、そして夫婦関係がたいてい危機に陥るように、10年20年という長期的関係というのは難しいものであろう。

人間関係は、愛に偏りすぎれば破綻する。親しき仲にも礼儀あり、という言葉は「尊敬」の持つ斥力の重要性を示している。それはフロイト的にはヤマアラシのジレンマなのであり、カント的に言えば非社交的社交ということになる。

人間は、完全に他者とは同化できないが、しかしそれを求めてやまない悲しい人間と言えるかもしれない。とはいえ、愛も、尊敬も決して悪い概念ではないのだから、愛すると同時に尊敬することが必要と言えるだろう。



ぼく自身に友情はない。友人はいない。恋人もいない。家族との関係も、ほとんど断絶している。せいぜい、職場の人間と会話するくらいだが、それでも良いという気がしている。

ところで、昨日食べたものは、カキフライとチキンとニンニクなのだが、この組み合わせは、実に精がつくものであるらしい。

最近自転車を始めたから、適度な飢餓感を得ることができる。そうすると、あまりしょうもないものに、食指が向かなくなるようだ。

健全な飢餓感が、健全な嗅覚を生む。健全な嗅覚が健全な食材を選ぶ。健全な食材が、健全な肉体を作り、健全な肉体が健全な精神を生む。

そうだから、食べるということは案外バカにならないものであるし、食べることよりももっと「飢える」ことが大切だと言えるのだろう。

以前、断食したときにも感じたことだが、世の中には不要な食べ物ばかり溢れかえっている。このような社会では、ひとはただ食べているだけでも病気になってしまうだろう。現代人を悩ませる高血圧も、糖尿病も、高脂血症も、すべて食事(と運動)の疾患である。(なお、これらの生活習慣病は日本人の六割を殺している)。

ぼくらの鼻はバカになっている。だからうまいものとまずいものの違いがわからない。ところで、うまいものとは健康によく、まずいものは身体に悪い。この逆ではない。

この感覚は、飢餓状態を体験すればよくわかるだろう。飢餓のときに、ポテチやソーセージを食べようと思わない。ただ米と味噌汁のような粗食を求めるし、それが驚くほど美味なのである。

嗅覚とは、人間の根源的な能力である。もっとも原始的な感覚器官である。だから、この器官が狂っているということは、人々に予想以上大きな影響を与えているのかもしれない、と思う。

肉体の飢餓、精神の飢餓、いずれも求めなければならないだろう。それは嗅覚を鋭敏にするためだ。飽食に満たされていれば、すぐにバカになってしまうものであるらしい。

日本の騒音は世界一だが、それにぼくらは慣らされている。電車が「忘れ物するなよ」と指図することも、トラックが「左に曲がります」とアナウンスすることも、スーパーでフュージョン系の音楽がガンガン鳴っていることも、一定の意味があるとぼくらは考えている。

視覚の騒がしさにも、ぼくらは耐えている。テレビをつければケバケバしい原色だらけ、都市は電柱と電線で埋め尽くされ、ブックオフやヤマダ電機のような原色そのものの店舗が日本中にそびえたち、人々はミニバンのような醜悪なデザインの車を「かっこいい」と思っている。

過酷な疲労にも、ぼくらは慣れきっている。労働時間はどんどん長くなり、ついには日本人男性の半分以上が、一日10時間働くようになった。このような状況は是正される気配がまったくない。当の長時間労働者自身が、こういう。「金をもらっているのだから、長く働くのは当たり前だ」「社会は理不尽なものだ」。だから、ひとびとはこのような状況をしぶしぶでも受容しなければならない。そうして、いつか「慣れる」。

このように、ぼくらの感覚器官は、汚染され、正常な機能を失っている。

そうだから、一度すべてを廃絶するのがよいのだろう。病気における療養処置であり、一時的に休ませるだけでいい。いちばんよいのは、海外に行ってみることだろう。そこでは当たり前のように静寂が確保されている。都市は都市で、田舎は田舎で景観を保っている。人々は当たり前のように17時が過ぎると街に溢れ帰り、それぞれ思い思いに人生を楽しんでいる。

もっとも、海外がすべて正しいというわけにもいかないだろうが、人間としてのまともな感覚、コモンセンスを思い出すためには、海外旅行は実に有効であると考える。

この国の精神全体が、ある神経症にかかっているように思えてならない。そして、神経症は、たいてい治療不能だ。世界大戦に敗北しても、原発事故を起こしても、国家の支配構造はまるで変わらなかったから、そういうことなのだろう。

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