6.22.2015

Cahier

退廃的な、朝の気分。

もう自分がどうなるものでもない、という気がする。

土日は幸福に過ごした。土曜日はバイクで高野山へ行った。日曜日はいい感じの曇天だったので、自転車で一日中走っていた。

高野山では、「正しくありたい」ということを強く思った。そうだから、戦国武将のような過去の権力者の墓に向かって、ぼくに力をください、と願っておいた。

日曜日は、正しくあることとは何かをずっと考えていた。

ぼくはといえば、弱い一個の人間に過ぎないのである。これは確かだ。ぼくは飯を食らい、クソを垂れ、マスをかいて、豚のように眠る一個の生き物だ。

真理とは正しいのであり、正しいということは、結局、幸福への道なのだろう。現状を「完全な幸福」と錯誤して、世の人々は満足してしまう。これこそ真の地獄である、とヴェイユが言っていた。
地獄についてのふたつの考え方。ふつうの考え方(慰めのない苦しみ)。わたしの考え方(にせの完全な幸福。あやまって天国にいると信じること)。(「重力と恩寵」)

ヴェイユの「重力と恩寵」はまことにぼくの心をうち震わせた。ぼくは、ヴェイユを自分の同類のようにも感じた。しかし、ぼくとヴェイユは決定的に違う。

第一に、彼女のように父親が医師ではないし、「パスカル並」と評価された数学教授を兄に持つわけでもない。ぼくの父は知的職業についておらず、兄は社会的地位の低い仕事をしている。彼女は元哲学教授だったが、ぼくはサラリーマンだ。

第二に、彼女のように、底辺層の仕事に就き、病弱な体ながらその中で人一倍働き、さらに正当な給料まで受けとりを拒否する、そういう聖人のような行為はぼくにはできない。ぼくは中産階級の仕事に就き、健康な体でも人並みに働かず、給料はきっちり貰っている。それで余暇も、給料も、足りない、足りない、とわめいている。

このように、偉人たるべく生まれた彼女とは根本的にぼくは「違う」。

彼女の精神は、著書は、ぼくの共感を呼ぶのに、彼女との境遇は、ここまで違うのである。これは不思議なことだ、とつねづね思う。ニーチェを読んでいてもそうだ。ぼくはニーチェのような天才ではない、父親が神父でもない。しかし、著書は心を打つ。

彼らは、降りてきてくれているのかもしれない。自分の真理を、自分の著作に、翻訳してくれているのかもしれない。かもしれない、というか、当然そうなのだろう。医者が患者に病理学を説明するときのように、しょせん一般向けなのだから、岩波新書のように、噛み砕いて教えてくれているのである。

何事も、原著にあたることが大切なものだ。そうだから、著書を著書のまま受け取らず、彼らの心の奥底に触れることが必要なのだろう。本を読んで満足してはならない。

ぼくはニーチェやヴェイユのような高みに憧れるが、それは永遠に適わないだろう。それはある意味で必然なのだから、抗ってはならないと思う。運命に抗うとは、必然に対する冒涜である。

ぼくは凡庸な一市民として終わるのかもしれない?それは寒々しい未来像ではあるけど、それで良いという気もする。ともあれ、自分が何かに「なりたい」などと、思わないことだ。その邪心が、人間を畸形化してしまう。

ぼくがもし、偉い人間になったとしても、それは必然であり、凡庸な市民として幸福に過ごしたとしても、それは必然、発狂し首をくくったとしても、それは必然なのだ。必然とは、自然であるということで、川の水が逆流しないようなものだ。

運命に対し手放しになる。これは旅を楽しむ上で大切な要素だが、普段生きていく上でも重要であると思う、社会は見せかけの選択肢ばかり与えるけど、それは迷妄である。自己責任論などと、愚にもつかない新興宗教がこの国では流行ってはいるけれど。

「これが人生であったか。さらばよし、もう一度!」


ぼくは賢者のように生きていく道しかないようである、それはぼくの鋭敏な神経が物語っていることである。ぼくはあらゆる刺激に弱い。刺激に弱いということは、外部の情報をより多く受けとっているということである。

ぼくは聴覚過敏になってしまって、最近では、車の音が耐えられないのである。でも、車の音が耐えられない、そんな人間はどう生きればよいのだろうか。考えてみると、この国は、聴覚が鋭敏な人間には、耐えられない国であるらしい。どこへ行っても騒がしい。家電屋や、スーパーの生鮮コーナーですら、ぼくを苦しめる。静寂はどこにいったってない。

ぼくは孤独でありたいのに、騒音が、ぼくを孤独から引き剥がす。自動車の轟音が鳴るたびに、ぼくの魂が少しずつ奪われていく、という気がする。

でも、同時にこの聴覚過敏が、ぼくを静寂へと導き、ぼくを真の孤独へ導き、真の音楽へと導いていくのだろう、という予感もある。神経鋭敏者は、神経が鋭敏であるということでまことに苦しむが、神経が鋭敏であるということで、同時に美を享受するのである。恐ろしい苦しみも、救いとなる美も、神経過敏者には、強烈である。

なお、ぼくが賢者に向いているといったところで、それは「向いている」というだけで、ぼくが賢者であることや、それになることを保証するわけでもない。ニーチェやヴェイユと共鳴したところで、ニーチェやヴェイユのようなレベルには永遠に届かないのと同じである。

ただ、自分は賢者向きであって、市民とも、戦士とも違うのだ、と思うことは、生きる上で少しの指針になるようだ。

賢者、というと大仰だから、知識人とか、文化人と言い直してもいいかもしれない。

ところで、ヴェイユはニーチェが嫌いだったようである。その理由は、表現が大げさだからだと。なんだかわかる気がする。

仕事に行こう……。

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