7.01.2015

憂鬱の治療

死の綱が私たちを取り巻いた、
そして地獄の不安が私たちを捕えた、
私たちはさまよった、暗闇の中を。(詩篇116:3)

再び憂鬱。

手指が動かず、思考は緩慢で、「助けてくれ」ともがき続けている。別に悲しいことがあったわけではない。具体的な事象それ自体は、ぼくを苦しめることができない。というのも、最近はある確信を持ったのである。すなわち、苦しみとは外的環境によるものではなく、内的要因に依るものだと。

苦しみと、悲しみとが運命付けられている人がいる。この人は、富を得て幸福な境遇にあっても、悲しむものだ。貧困は、まだしも彼を救ってくれる。富むことが幸福への道だという幻想を信じることができるからだ。だから、一旦富んでしまうと、新しい絶望が彼を襲うようになる。

人はすべて幸福を求めるようにできている。これは間違いないことだろう。問題は、真の幸福とは何なのか、ということである。それは少なくとも、マイホームだとか、「友達百人」にあるのではない。年収二千万円とか、文化勲章にあるのではない。このような信仰を持つ人はカッコ付きの「幸い」である。

だから、一見、幸福をすべてなげうち、絶望の海に沈みこむように見える人が、幸福の探求者でありうる。大学教授の資格を持ちながら、工場の最底辺労働に従事したシモーヌ・ヴェイユは、幸福の探求者である。彼女はただ自分が「幸い」であることに耐えられなかったのだろう。

ところで彼女の働いていた最底辺の労働はたしかに過酷だったようだが、その労働は一日8時間で終わったようである。だから彼女は「重力と恩寵」において次のようなことを言っている。「一日八時間働く労働者が、毎日一時間の読書をしたとしても、それは絶望しかもたらさない」

思い出しながらだから、実際はもう少し違ったニュアンスかもしれない。少なくとも、当時は一日八時間とは当時の感覚では相当長い労働であったらしい。ところが、今の日本人ときたらどうだ。八時間で帰られる企業なんてほとんどない。だれもかれも、残業で身をつぶしている。日本人の半分は本を開くこともないのだと聞いたことがある。

「憂鬱の感情は内的なものである」と言ったが、さっそくそれと矛盾することを書きたい。ぼくらの憂鬱は、我々が苦しめられていることに起因する。この社会では、99%の国民は、知らず知らずのうちに搾取され、苦しめられている。だれもかれも苦しめられているから、もはや、それが当たり前になってしまった。

だから、憂鬱者とは、この抑圧と搾取の支配に無意識的にでも気づいた人物と言えるのかもしれない。彼は日常の生活が、単なる拷問の連続だと気づいたのである。しかし、彼には次に何をなすべきか、皆目検討がつかないだろう。だから、絶望の中に沈むしかなくなる。

現代では憂鬱は病気であるとされる。憂鬱者を薬で治療せよ、とされる。これはつまり、鞭打たれ、苦しめられている奴隷に、笑うことを強制する行為である。過去の奴隷制の歴史のなかでも、これほど残酷な行為は行われなかった。

このような社会では、苦しむことのできる人間は、負け犬というよりは、知者と言えるのかもしれない。

――抑圧的な社会では、サイコパスが手本とされる。彼は腕を切り落とされても気づかないからである。

この社会において、苦しむことのできる人は、正しく、そして貴重であるから、自己の価値を、大事に守らねばならない。「苦しむとき、人は一人で苦しむ」とペソアは言った。だから、憂鬱に苦しむときは、ただ自己のみが自己を救わなければならない。

散漫に書いた、書くことは、憂鬱の非常に良い治療法だと思う。

ものを書くことは治療法の一形態である。書いたり作曲したり描いたりしない人はみんな、いったいどうやって狂気や欝、人間の境遇にはつきものの追い詰められるような恐怖から逃げおおせるのかと、私はときどき不思議に思う(グレアム・グリーン)

3 件のコメント:

  1.  前回の衆愚ということで色々調べてみると面白い記事にあたりました。全くアカデミックではないので、お目汚しになるかもしれませんが、一応URLのせておきます。内容は、井口和基という人の書いたヒトラーの予言という記事で、日本や世界についてのこれからの姿を予言しているものです。そこにある内容はいくつかの点で現在の日本の状況を非常によく言い当てているといえます。また、そこにある永遠の未成年集団という言葉は、衆愚というニュアンスよりもより私の感じている違和感に近いと感じました。
    URL http://quasimoto.exblog.jp/16119042/

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  2. 黒崎さんの仰る二種類の〈幸せ〉は、たぶんシステムによって位置づけられる〈幸せ〉と人間としての〈幸せ〉なのでしょう。
    システムは人類が長い時間をかけ構築してきたものです。しかし、それはある種の虚構にすぎません。
    我々は否応なしにシステムによって整えられた世界に生れおち、その中で成長してゆくので虚構を現実だと思い込んでしまう。そして虚構の世界を構成しているものごとの意味連関を内在化する。

    システムという虚構の構成する意味連関の中では、〈幸せ〉は安心できて、寄りかかれるものです。幸せなら手を叩こう!それは決して私を不安に陥れたり、拒絶したりするものではないでしょう。私の想定(虚構の提供する意味連関)を超越してきたり、脅かしたりするものではないのです。たしか岡本太郎は作品を通じてこのことを語っていますよね。

    ですがこのシステム=虚構に時々裂け目が生じます。その裂け目から真の現実が一瞬垣間見えます。しかし人々は往々にしてこの現実に一瞥をくれただけで、虚構の意味連関のうちにある言葉をもちいることで説明し、胸をなでおろしてしまう。虚構に留まろうとしてしまうのです。
    例として―地下鉄サリン事件当時のマスコミ(大衆の代弁者)はオウムを〈悪〉とすることで、世間・大衆側を無条件に〈善〉としました。わけのわからない事態をシステム側の言葉によって説明することで片づけ、彼らは安心しようとしました。ここからニヒリズムが生じてきます。

    この深淵から覗く真の現実に対峙し、じっと見つめたことのある人々はもうひとつの〈幸せ〉を知るのでしょう。人間として生きることの歓喜・・・。

    ブログ毎回楽しく拝見させて頂いております。
    ついコメントしてしまいました。

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  3. 拝見しましたが、ヒトラーの発言は確かに興味深いです。
    ヒトラーについては詳しくないのですが、彼が独特の為政者であったことくらいはわかります。彼のイメージはファシストの筆頭や世界的な犯罪者としてのイメージに塗りつぶされていますが直情的に反応するのでなくもっと冷静に中立的に吟味する必要はあると思います。個人的には、彼は預言者であり、(そのため)正統的な為政者としての一面もあったと考えます。卑弥呼がそうであったようにです。彼はもともと貧しい画家で、一国の指導者としてこのような経歴を持つ人は稀です。とても興味深い人物です。
    ちなみにそのブログ中の「レプタリアン」という記述は本当に嫌いです。知性の欠如を露呈しています。これは反大衆的大衆の好むキーワードだからです。反大衆的大衆とは、大衆から離れていればいるほど、真実と考える大衆です。大衆的大衆と、反大衆的大衆は、右を向いているか左を向いているかだけで、同じ大衆であり、痴愚です。

    「幸せなら手を叩こう!」後ろから蹴飛ばしたくなる良い言葉です。
    深淵……岡本太郎といえば彼はニーチェの系譜です。ぼくは彼の絵画を眺めながら、つねづねそのことを感じてきました。彼とパリ時代を過ごしたバタイユもまたニーチェの影響を色濃く受けている人物です。岡本太郎はニーチェへの布石であるとぼくは感じています。ところで日本を代表する文学者である夏目漱石もまたニーチェの布教者のような人物です。
    近現代の思想の大部分はニーチェの産んだ子どもである、というのが実感としてあります。岡本太郎からニーチェを抜き去ってしまえば、実は空虚であることもぼくは知っています。

    幸福ということについては、これはどうも、わかりません。ぼくらの生きている世界は、いちがいには虚構とは言えないでしょう。そう言い切ることはできないのです。だって、現実にはぼくらはその中で生きているわけです。
    ぼくにとって、社会は虚構ではなく、実在でもないのです。だから、怖いともいえます。
    支離滅裂かもしれませんが(酒が入っているので)、思うままに返事させてもらいます。

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