7.10.2015

消費と搾取

今日、コーヒーをこぼした。PCにこぼした。おかげで、14000円で買った中古のノートパソコンは、死んだ。電源ランプすらつかなくなってしまった。

これで、先延ばしにしていた新しいPCを買うというめんどうな作業が急務となった。

何かを買うということが、これほど楽しみではないというのは、どういうことなのだろう。

子どものときはもっと楽しいことだった、駄菓子屋でヨーグルトではないヨーグルト様のものを買っていたときは、純粋に消費に喜びを見出していた。

子どもの頃は、金は労働の対価ではなかったし、500円が大金だった。いまは違う。

消費に対する感情は、昔とは違う。これは別に子ども大人という違いだけでなく、だれしもが今では感じるようになったことなのだろう。

労働の対価である金は、ぼくらの血で塗られており、そうだから金を使うことの生理的な恐怖感というのがある。これは、超過労働が当たり前となり、時間給に換算すると東南アジアにも満たない貧弱な給料となったときに、ますます傾向を強めた。

もうひとつは、市場価格に対する不信感であり、「もしかしてそれは高すぎるのではないか」「私の消費は、私を豊かにするのではなく、だれかを豊かにするだけではないのか」という神経質な傾向が、物を買う意欲を削いでいる。つまり人々が、商品に対し猜疑心を抱くようになる。

もっとも、PCであれば、世界的に価格競争が行われているのだから、そこまで悩む必要はない。適当に、スペックの条件を満たすなかで安いものを選んでいけばよい。

それ以外の、電気料金とか、税金とか、酒や食品、考えていくとやりきれないような出費が数知れない。

スーパーのポテチにしたって、これは談合価格なのだろう、と思うと、買うのを控えてしまう。

日本の商品は、大抵の場合、他先進国と比べると貧弱で高価だが、その一因は価格カルテルが当然という風土によるのだろう。

たとえばバターが買えないと民が嘆く先進国がいったいこの国以外にあるだろうか?(そもそもバターは高すぎるのだが)。

自販機も事実上公的なカルテルが認められている。

このようにぼくらの身の回りの商品は、企業努力によって魅力的になった商品という資本主義的なモデルは消えて、実質的に大資本やカルテル企業団体による搾取という様相を示している。

そうだから、ぼくは消費するときには、ドッと疲れるような気分になる。抜け目のない搾取から身を守らなければならない、と気を張るのである。

アパートの退去費用は、「弁護士を通す」と言ったら、半額以下の費用になった。敷金は帰ってこなかったが、精神的な疲弊がひどく、諦めることにした。

無知なバカな連中から金をせしめれば何でもいい、という奴ばかりだ。
ミニバンなどという、醜悪な車が買われているのも、貧困ビジネスだ。

ここで言う貧困とは、文化的貧困のことでもある(もっとも経済的貧困と文化的貧困は容易に切り離せない)。AKBやソーシャルゲームも貧困ビジネスだ。

この国はどんどん貧しくなっている。当然、ゆたかな国なのだという幻想は捨て去るべきなのだろう。

中国の株価が激動している。その余波で、日本がどうなるかはわからない。中国はまだ伸び代がある国だ。

ところが、日本はどうか。伝統的な大企業が粉飾決算で批判を浴びる。オリンピック会場で行政の無能を示している。原発は解決の目処もつかない。そうでなくても世界一の高齢化社会だ。

やはり、脱出がいいという気がしてきた。仕事に行こう。


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