7.12.2015

奴隷の条件

アパートの退去費用は、国交省の工事とよく似ている。つまり、あれこれ理由をつけて、できるだけ金を毟りとろうとする。だから、国はこれを規制できない。

学校のいじめは、国家的な情操教育の結果だ。だから、これは末端では解決できないし、かといって中枢で規制することはできない。官僚は有能だがひとつのことができない。「誤りを認めること」。

日本人の個性の欠如は、教育の結果である(制服、全国統一的カリキュラム、チャイム、右向け右、体育座り、全校統一給食、クラス制、班制、全校集会)。

意外と知られていない事実。全校集会が頻繁にあるのは、日本だけ。

知性の欠如もまた、教育の結果である(ひたすら詰めこむ暗記教育、正誤問題、マークシート)。

文化的貧困も、教育の結果である(5時に学校が終わり、そこから10時まで塾、あるいは部活動。美術館にいく時間もなければ、本を読む時間もない)。

奴隷に求められるただひとつのこと。

「疲れ切ること」

これが奴隷の条件だ。

疲れ切るとどうなるか。考えることがめんどくさくなる。

ルノー工場の女性工員「考えることは、きっとだれか他の人がやってくれているのだわ」

次第に、人は「支配されたくなる」。実にこの国家は、支配者によってコントロールされてるのではない。あらゆる非近代国家と同様、支配されたい国民によって、コントロールされている。

裁判所で、泣きわめく戦犯者たち。俺は悪くない。俺はただ「みんなのために」したんだ(一方で、外国のスパイは、哄笑した)。

「なぜ俺が叩かれるんだ?」という顔で記者会見する、東電の幹部。彼らもまた、懸命に働き、国に尽くす、善意の人間であった。

疲れることは善だ。この国は、だれもかれも疲れようとする。エアコンをつけない。座らない。せかせか歩き回る。仕事を見つけようとする。「何かやることありますか?」

日曜日は、町内会で奉仕。

一度も考えたことのない人間は、考えることを極度に恐れ始める。それは過去の否定につながるからだ。

彼らにとって「考えること」とは、まず自分の無知を認めること、自分の過去が国家統制によって犠牲にされてきたことを、認めることだからだ。自分の人生が、台無しだったことを認めることだからだ。

「そんなことはできない」。目覚めることは怖い。なら、アニメを見よう。テレビを見よう。JPOPを聞こう。これらは、考えないことを勧めてくれる。「私は、正しいんだ」

一日10時間の労働と、あとはテレビを見ることによって一日が終われば、人はついに考えることなくその生涯を終えることができる。すばらしく完成された人生。ディストピアはここ日本に完成していた。



いじめ。考えない人間による、考える人間の排斥。彼らにとって、意志をもった人間は不気味にうつる。「勇気と節操をもっている人たちは、ほかの人たちからみると、いつだって非常に気味のわるいものさ」とデミアン。

3 件のコメント:

  1.  政府の二枚舌管理はまさにこの考えさせないという理論を適応してますね。しかし、最近はなんとなくやりたい放題やってる節があります。おそらく、もう国民には抵抗力が残ってないと考えているのでしょう。できても、政権交代程度で、特に問題はないのです。最近では、特定秘密保護法案可決、安全保障関連法の変更案、消費増税、原発再稼働の推進、東京オリンピックへの過剰な投資。こうした一連の動きがあり、まさに時代の転換にも結び付く大きな変更であるにも関わらず、なぜか他人事感が社会に蔓延しています。考えず、感じず、お人形のように可愛い人間がもてはやされ、社会や将来については、「わからない」、「関係ない」で済ませるだけ。逆に不用意な意見は、いじめやネットでの中傷につながるという怯えもあり、自己の意見を磨くこともない。結果、感情的な好悪の刺激が判断の材料となる。よくよく、考えないということをよく仕込まれた国民だと思いますね。

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  2. ふたつわからないことがあります。

    日本に限らず、民衆はつねに愚昧ではないのかということです。政治について話だすと止まらない典型的なドイツ市民が、近視眼的なロボットと化した日本人より優秀なのかということです。

    国家と国民を入れ替えてみるとすれば?日本人によるドイツ国家、ドイツ人による日本国家、どちらもぐらついて倒れてしまうでしょう。

    この意味は、国家と国民は切り離せないということです(当たり前ですが)。国家が国民によって成り立つとすれば、国民もまた国家によって成り立つのです。

    ふたつめは、この支配の構造は「正しいのか」「正しくないのか」です。

    アレックス・カーの表現は好きです。この国は「強国・貧民」と表現されています。これは日本の現状をよく表しています。しかし、弱国・富める民になれば良いのか?とも考えます。現代の「強い」国、たとえばアメリカや中国もまた、大部分の人は貧しいのです。

    まだこの国を断罪はできません。確かに国民は悲しいくらい貧しいですが、それが正しいのか、間違っているのか、もう少し考えてみたいと思います。

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  3.  返信ありがとうございます。黒崎さんの疑問に思っている点にははっとさせられます。国民が作りあげたものが国家であり、国家の在り方もまた国民がいてこそ成立するのだ、まさにその通りです。

     しかし、私は二点目の支配と被支配について考えるとき、ふと国民とは果たして何だろうと思ったのです。

     例えば、ドイツ人と日本人を入れ替えたらということで考えたとき、実際には国籍上日本人として生きている外国生まれの人もいるし、海外から仕事の為に日本に来て働く外国人だっているわけです。

     政治だけでなく、経済的な活動もまた大きな影響があると考えるならば、国家の構成要員である国民とは何だろうと思ったのです。

     また、支配の正しさを考えるとき、日本が現在の資本主義諸国家のイデオロギーを踏襲している側面から、単に一つの国家としてでなく、資本主義国家として市場原理に従って自由に経済活動を行い、適正な競争に基づき、富を得ていくという構造があります。

     それにより需要の高いものが残り、低いものは洗練されるか、淘汰されることになります。嗜好品や芸術品もあるので、必ずしも全てのものにあてはまるわけではないですが、結果として、早くて安くて便利なものが生まれることが市場の需要にも結び付いた時、それは資本主義においては正しいとなると思うのです。

     しかし、国家や個人として考えるとき、市場で需要があることが必ずしも正しいとは思えないのではないか。そして、どうしてそう考えるのかなどと考えてしまいます。

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