7.13.2015

青春の亡骸

夢や展望と言った概念は消えて一日一日を矮小な喜びとともに費やしている。本を読むけど読むだけだ。古典はしんどくなった。哲学はとくに無理だ。実のところ現代的な哲学も、よくわからない。ジョルジョ・アガンベンがいったい何を言いたいのか、だれか教えてくれ。これだけ知識が積み重なってしまった時代では、本を読むだけで一生を終えてしまうのではないか。本や知識とは、それをもって行為するためではないのか。それ自体を目的にするのは、変態性欲と同じように、生に対する逆説ではないのか。

日常が静かに充実し満たされていく感覚がある。ファウストの詩人いわく、「私はなんにも持ってはいなかったが、真理への欲求と、錯覚を喜ぶ心とで満ち足りていた。どうか私にあの不羈なるままの衝動を、不快な、悩みに満ちた幸福を、憎しみの念力と愛の威力とを、私の青春を、とりもどしてください。」

加齢はだれにも襲いかかる。だれもが年をとると丸くなる。青春は去る。それでいいのかもしれない。深く、悩み、絶望した過去は消え去ろうとする。これは喜びでもあるが、それにしても、ひどい喪失感だ。

最近、記憶力が落ちてきた。昨日のことがわからない。昨日何したかがわからない。今日の曜日が、なんだったかわからないため、土曜日なんかには、実は勤務日だったのではないかと思って、一瞬ゾッとする。一日一日を貴重に生きていた日が、学生時代にはあった。生や知に目覚めたある時期から、ぼくは日記をつけていた。その日記は何年か続いた。書き忘れた日は、後日つけたしたが、大抵毎日書いていた。そして、去年の同じ日は……一昨年の同じ日は……と読み返すのが、楽しかったりした。一日一日が、極彩色や、ひどい灰色で彩られた。あのときは、一日一日に意味があったのだ。

日々の生活から、恐ろしい重圧も、ときおり味わう雷鳴のような多幸感もないのであれば、日記をつけることになど、さほど意味はないのだろう。ぼくは、時間がない。できる限り、休むことに時間を使いたいのだ。休まなければ、考えることも難しくなる。今は思考の小さな灯火を絶やすまいとなんとか守ろうとしているのだ。

月に一度給料が与えられると、もうそのことしか考えられなくなる。金が、ひとを惑わす。新宿の通勤電車、スーツに身を包んだ不幸なひとびとは、だれもが金を稼ぐために必死なのだ。何のための金?第一に、生きていくための金だ。金、金、金……金が彼らをここまで追い立てる。人間は貧しくなった。金のために生活が貧しくなった。

金のためだけに、杉植林が行われ、金のためだけに、山が削られ、金のためだけに、河川はコンクリート化する。そうして、田舎の情景も極めて醜悪になってしまった。杉植林のせいで、土砂崩れがおきて、人々の命を飲み込む。なんというか、皮肉だ。

ともあれ……生が貧しくなろうと、生きていかねばならないことには違いない。今日も今日の義務を果たす。生活は、戦いだ。神経を、硬く張ることは、疲れるけど、必要なことだろう。

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