7.14.2015

幼稚園騒音を考える

騒音が、なぜぼくをここまで追いつめるのかわからない。人は、目を閉じることも、嗅覚を遮断することもできるのに、音に対してはまったくの無防備だ。

「子どもの声は騒音なのか?」というテーマが、一時期流行ったことがあった。都内の幼稚園が近所のクレームをうけて、グラウンドの周りに防音壁を作ることになった。それに対して、行きすぎなのではないのかという声があがっていた。

これ自体はよい議題だと思った。日本人は平均的に音に対して鈍感すぎるから、少しはその状況が多少でも改善するという希望があった。

ところが、みな、見当違いの議論をしていた。

とくに不可解だったのが、子どもの声が実際に環境において騒音のレベルであるかという議論はされずに、「子どもだから我慢すべき」という主張が多くを占めたことだ。

子どもの声だろうと、トラックの騒音だろうと、一定レベルを超えた騒音は環境中から極力排除すべきだろう。

社会的要請が、ここまで心理の奥深く、私的領域まで抑圧する社会もないのではないか。つまり、社会はこう言うのである。「うるさいと思うな」

実際には、世の中には子ども嫌いというのが一定数存在するし、そもそも人間の声は脳内でかなり増幅されるので、人の声の方がはるかに不快だということの方が多いだろう。

「子どもなのだからしかたない」と思うことは勝手だが、それを強制することは間違っている。

まあ、ネットでの議論だからしょうがないのかもしれないが、「実際にその幼稚園の騒音はどの程度だったのか」という点はだれも語らずじまいだった。

「子どもはうるさいもの」という概念が、いつから生まれてきたかわからない。幼稚園では、たしかに、子どもたちはうるさい。「元気よく挨拶しましょおおお」「お歌を歌いましょおおお」と、保母は絶叫する。そうだから、子どもも負けじと応答する。

子どもは何にでも成りうる。静かにも、うるさくも、だ。実際、他国では日本の子ども以上にうるさい生き物はなかったように思う。例えば日曜のホームセンターやスーパーともなれば、子どもたちの奇声ともつかぬ絶叫が聞こえてくるが、あの動物的咆哮は日本でしか聞いたことがない。(多分、例のごとく、中国や韓国でも見られるのだろうけどこれは省く)。

子どもは元気がいちばんというイデオロギーが、子どもたちを動物化する。この手のイデオロギーはあまねく支配している。静かで内向的な子どもがいれば、大人は「病気なのではないか」「虐待でも受けているのではないか」と訝しがる。(実際、この手の子ども……静かで思慮深く、シャイな子どもを見つけると大変嬉しくなる)

ところで、最近は、うるさすぎて落ち着かない子どもも「治療対象」になったようである。小児レベルの「メチルフェニデート」を与えることで、集中力が増すのだという。メチルフェニデート、商品名はリタリンだ(子ども用はコンサータ)。一時期「リタラー」という言葉が流行ったが、覚醒剤と同様の作用を示すことで若者の間で流行した薬である。治療効果はあるのだろうが、子どもに覚醒剤を与えるとは、ぞっとする話ではある。

鬱病で治療し、騒がしければ治療される、しまいには健常人などいなくなるのかもしれない。

話がずれたが、結局、日本の子どもは極端にうるさいという可能性を考慮に入れるべきだと思う。それは幼稚園教育の問題に繋がる。

第二に、住宅の過密と、貧弱な防音性の問題がある。日本のほとんど全ての住宅でアルミサッシが使われているが、これは他国ではほとんど使われておらず、法律で使用を禁じられることもある代物である。なぜというに、エアコンの冷気や暖気がほとんど逃げてしまうからである。そして、外部の音を遮断するという目的では、ほとんど役立たずだからである。ついでに、建築費の節約のためか、断熱材がほとんど使われず、壁が薄いという実情がある。

そういうわけで、我々の住環境がひどく貧弱である、という問題がある。幼稚園が防音壁を立てるというのは、これは原因と結果を取り違えているだろう。我々の住宅が必要な機能を欠いているのである。

これで、幼稚園騒音解決の道のりができた。

まず、子どもたちを絶叫させるような教育は、およそ先進国の教育ではないということを念頭に、教育改革を起こす。保母が「お歌をうたいましょおおおおお」と叫ぶ必要はない。高校の授業と同じ程度の、普通の声量で話す。(そもそも、合唱は必要なのか?とも思うが)

第二に、日本の住宅事情を改善する。アルミサッシを法規制し、断熱材に一定の厚みがなければ、違法建築として取り締まる。二重窓を標準化する。これによって、多いに節電効果も高まるはずだ。

まあ、どちらも絶対実現しないのだろうが。


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