7.15.2015

科学と芸術について

いまさらになってゲーテのファウストを読んでいる。

当たり前だが、すごい本だ。このような古典が存在するのであれば、詩人の仕事はもう大部分終わったようなものだろう。

本を読むということは、実に経済的な行為である。というのも、他者が考え抜いたエッセンスを、数日で体得できるからである。

そういうわけだから、読書は進歩的な行為と言えるかもしれない。既存の芸術や、科学、あるいは文芸は、それを享楽することができると同時に、義務感を育むものである。その前提を土台として、さらなる高み辿り着く義務である。

世界中、あらゆる哲学者が、いまだに紀元前のギリシャ哲学から多くを得ているという事実は、驚くべきことだ。まあ、哲学は、いったい進歩しているのか退歩しているのかわからない分野だ。

科学は、はっきりと進歩していると言えるだろう。科学それ自体は完成された不可逆性を持っている。科学は広がることはあっても、その領域を狭めることはない。社会的要請は、科学を聖域とすることを認めた。もっとも、科学と権力ががっちりと結びついた国もある。

芸術という分野も、進歩しているのかは、はっきりとわからない曖昧なところがある。近代以降の芸術は、永遠と独立を目指しているように感じる。そうだから、芸術作品は進歩という系譜図に収まることは望まないし(結果的にそうなるにせよ)、また、時代性を排除しようと試みるものらしい。そうだから、ゲーテの詩はいまだ美しさを保っているのである。

もう少しいえば、芸術はつねに人間をテーマにするものであるらしい。人間に訴えかけるものだから、当然だが、例えば美しい海を描くときにも、それは人間を排除しているわけではない。人間のなかに海を生じさせる仕事であり、その共鳴がなければ、芸術とは言えないだろう。

そうは言っても、3Bを聴かずにクラシック音楽を志すことや、シェイクスピアやゲーテを読まずに文芸を志すこともまた、難しいことだろう。

科学が不可逆性を持っているとすれば、芸術は不可能性を持っているだろう。つまり、若き芸術家の脆弱な精神は、巨人の引力には打ち勝てない。たいていの芸術家は、その巨人の手のひらの世界で、遊ぶしかなくなる。独創性を志しながら、結局は凡庸なカウンターでしかなくなる。この引力から逃げるすべは、自分もまた巨人になることだ。そのためには、ひたすら孤独と永遠を追求しなければならない。

なんだか支離滅裂になったが、結論としては、芸術は科学ではない。どちらも進歩性を対象に望むものだが、科学は個人の叡智が鉄骨となってひたすらに上に向かうバビロンの塔であり、芸術は反対に、そのような価値を認めず、個人の独立を要求するのである。

科学は天を志向し、芸術は地を目指すのである。



というよくわからないことを書く。

「誰が何のために私をこんなに苦しめるのか?」

と書いた漫画家、山田花子。彼女は24歳で飛び降り自殺をしたけども、彼女の洞察力は舌を巻く。真の芸術家気質だったと思う。

漫画という領域は、いまだ商業主義から離れられていないらしい。もっとも、現代のほとんどの芸術は商業主義に侵されている。

そういう社会だから、彼女は精神を病み、命を絶った。同じように、鋭敏な神経を持ち、そのために美しさや真実を愛し、それがために命を絶つ人がなくならないのだろう。

子どもじみた空想だが、彼女が日本以外の国に生まれていれば、多少なりとも生きやすかったのではないかと思う。

彼女の嘆きの大部分は、学校クラスのなかのヒエラルキーや、バイトでの人間関係についてだ。独立した個人を重んじる外国であれば、生に絶望することはなかっただろう。

ぼくと同じような神経症者は、割と図太く生きるらしい。神経症は一種の防衛反応だから、かえって死の衝動に免疫力がついている。

が、山田花子のような統合失調症と鬱病をミックスしたようなタイプは、結構な確率で自死してしまう。

このような死は、どこから来たのか、と考えるとやるせなくなる。大部分は、未熟な国家のせいだからである。

国家的束縛を離れて、芸術作品に触れることが、命を救うことがある。芸術は、人間とはこういうものなのだ、と教えてくれるからである。それは親や学校が教えてくれるバカ丸出しのドグマではない。仕事ができないから、友達ができないから、非人間扱いをされることはない。

あなたは、人間だ。そして、私も人間だ。そうして、あなたの地獄を、私も味わっている。

このような救いが、優れた芸術にはあると感じる。

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