7.16.2015

哀れなるマージナル・マン

一日が短い。労働の時間が膨張していって、私的な余暇の時間をどんどんと圧迫していっているような気がする。

朝はつねに寝足りず、かといって夜は何もしていない。飯、風呂、楽器、少しの読書で、一日が終わってしまう。

自分が不正直になるにつれ、生きることは快適になっていった。美と快適は相容れない。初めは意識的についていた嘘が、しだいに無意識を飲みこんでしまう。

私には、もはや、生活の豊かさということがわからない。生活が豊かであるとは、放蕩と読書の生活、あるいは年収が1000万円で、何十万円かのソファやデスクのある生活なのか。

人生のもっとも貴重な時代を、仕事でやり過ごしていくことは、かなわないことだ。

話の流れで、「同窓会には行きましたか」と職場の上司に問うと、自分は夢を諦めて、もうこんな田舎で消耗しているだけで、同窓には会えない、恥ずかしい、大企業で立派に出世している同窓と違い、自分は田舎の小企業の一社員でしかない、と言っていた。このヤロー新卒で入った俺はどうなるんだ、と思ったけど、まあそんなものかもしれない。

だれもが「本当の生活」を求めて葛藤している。田舎の人は都会に憧れ、都会の人は田舎に憧れる。日本人は外国に憧れ(舶来信仰)、外国人は遠く東洋の国に思いを馳せる(オリエンタリズム)。

自分の、いろいろな考えが固着し、腐敗し、人生にとっての毒素となってしまう前に、ガツンと、ハンマーでガラスを砕くような、そんな衝撃を求めている。そうでなければ、死んだ方がましだ。

生きること、これはわからない。

どうやりくりすれば良いのか。思考が安逸を阻害する。こうあることもできるはずだ、という思考が、わけのわからぬ方向にぼくを進ませる。

本を読みたい。先哲たちに教えていただきたいものだ。ああ、でもその時間はない。新書なら一日で読める。でも、古典を読むのは、つらい。一日で、まるで進展してないことがわかる。哲学となると、もっと難解だ。どうしてこうも難解なのか(きっと、昔の人は時間があったのだろう)。

絶対の時間が失われていく。時間がどうしてこんなにもないのか。私は、日々、数時間を自分のために使うので精一杯だ。やっと取り戻せたと思ったら、すぐ仕事の重圧が、ぼくを飲み込んでいく。

自分が、文筆家志望だという事実が、まるで馬鹿らしいことに感じる。凡庸な才能しか持っておらず、凡庸な経歴しか持っていない。しかし、正常人ではない。狂気の天才ではないし、かといってまともな常識人でもない。

この宙ぶらりんは、つらいものだ。片足は狂気に、片足は理性に。次第に引き裂かれていく。

悩むことなく、平気で仕事をし、セックスをし、けばけばしいメッキで飾られたミニバンでも買うような人種になってしまえば、人生は楽なのだろうし、反対に、完全な気狂いになって、幽閉され、クソを口に運んでいる方が楽なのかもしれない、と思うことがある。

しかし、この哀れなるマージナル・マンは、どちらにもたれることも許されず、つねに均衡を保つように、筋肉の緊張を要求される、生きるということが、すなわち疲弊と消耗である。

ぼくはたぶん、早々に死ぬだろう。

そう、文筆家志望なのだけど、何もしていない、せいぜい、少しの読書をするだけで、文芸雑誌なんて読んでいないし、ナントカ賞に応募することもない。創作は、一年ほどしていない。創作熱は、さほどない。取材とか、文献研究とか、正直言って、めんどくさい。

自分が何をしたいのかわからない。このくだらないブログしか、残っていない。しかしこれが最後の砦でもある。自慰的な散文と、自慰的な楽器演奏、これだけがぼくの人生で唯一色彩を持っている。

死の絶望も、今では恋しい。死は特別の意味を持たなくなった。信仰に似た感動はもはやない、生活の延長、あるいは裏返しでしかない。

絶対への信仰を取り戻さなくてはならない。

今日も仕事に行こう。


1 件のコメント:

  1.  6億円の横領をした普通の地味な女は、毎日タクシーで通勤して、北海道のリゾート地に別荘を建てているそうです。人間は見栄やプライドや貧しさを抱え続けると、この世を恨み、人を平気で傷つけるようになるようです。ゴッホは狂人で人生の大半を弟のテオに援助してもらい、ゴッホがピストル自殺をした後、しばらくして、後を追うようにテオも死んだそうです。エゴとは人を狂わせますが、我を離れたものに狂った方が、感動を与える何かがあります。

    返信削除