7.18.2015

獄中の窓

YOUTUBEで哲サラ氏(哲学するサラリーマン)氏の講義動画を見つけた。

彼のことはブログでしか知らなかったが、動画で見ると意外と、恰幅のいいひとであった。しかし、少しどもりがちな独白的な講義は、大学の退屈なおじいさん教授の講義を思い出させるが、哲学に関しては意外とマッチするようである。楽しい。

公開された講義数は数百にのぼるが、そのうちの「哲学夜話」を現在視聴している。

その中で、オーウェルの「1984」とカフカの「審判」を対比した、クンデラの批評が紹介されていた。これはおもしろかった。

カフカの「審判」で、K氏が獄中から外を眺めるシーンがある。街中の情景描写である。若い女がバケツに水が貯まるのを眺め、男は労働者にしきりに指示をだし、家と家の間には紐が張られ、洗濯物がすでに干されている……。

こういった描写は、人間がある限りは永続するだろうものである。

たしかに今はドラム式洗濯機があるし、欧州では外に洗濯物を干すことが景観の問題から難しくなっているにせよ、たとえばバケツのような容器に水を貯める瞬間というのは、かつてあったし、これからもあろうものである。

このような、人間自身に訴えかける描写にクンデラは着目した。

これに対し、管理社会を描いた「1984」では、このような「獄中の窓」は存在しない。つまり、永遠は不在であり、登場人物はすべて、歴史から切り離されているというわけだ。

こうしたオーウェルによる永遠の排除、「窓」の封鎖をクンデラは批判している。オーウェルはファシズムを批判しているように見えるが、実のところ彼自身がファシズム的な技巧(排除・断絶)を用いて、それを描いているというわけだ。

クンデラは、このような「窓」のない作品は、芸術として低レベルである、としている。

芸術は永遠性を付与されていなければならない、ということだろう。ちなみに上のは記憶をもとに書いているのでかなり曲解しているかもしれない。

永遠性とは、かつてそうだったし、これからもそうだろうものである。潮の満ち引きや天体の回転などはこれに当てはまるだろう。男女の恋愛がしつこいほど描かれるのも、人間が存続する以上、このテーマは揺るがないものだからである。

上のような批評は、哲学的な解釈も可能であると思う。つまり、我々の人生は永遠なのか、それとも断絶されているのか、という点である。

私の個人的・私的な苦悩は、かつての人間が味わい、これからの人間も苦しむことなのかもしれない……これを展開していけば、喜び、思考、出来事……あらゆることは人類の既存の共通体験ということになり、特定の時代の個人による占有物はなくなってしまう。

となると、私個人とは何なのか、ということになる。私自身はイマココにあるが、しかし、その私というのは、かつてあったし、これからもあるのである。即ち、こうして一人で引きこもって文章を書いている今も、私は自己や個人といった断絶された存在なのではなく、無限の広がりをもって存在していることになる。

あらゆる行為や、感情が個人に帰属できず、人類という財産からの借り物だとすれば、これはどうすればよいのか。

私的な概念が喪失する。自己が溶出する。哲学夜話の目標は「死を受容する」ことにあるようだが、たしかに自己の永遠性を知ることで、死を超越することができるように思う。

ぼんやりと考えていたことではあるけど、講義形式で学ぶとやはり気づくことが多い。

今日も仕事だが、たぶん楽だから、もう少し考えてみたい。






0 件のコメント:

コメントを投稿