7.23.2015

孤独と富

吐瀉物のような日々を送っている。

一日一日を消耗させるように生きている。あらゆる感動もなく、地を這うアリのように、疑問を持たず、無表情に、仕事をしている。

自分の境遇が理解できない。ある種の客観的な視点が、消えてしまった。渦中の人間に、渦の外は見えない。かつては渦の様相を見ることができた。今では、渦の大きさも、形も、まるでわからない。わかっているのは、渦が肉体を切り刻む力強さと、諦観である。

生きていることの、無意味さと、これほど肉薄することもかつてなかったように思う。たしかに、快適な生活、一日8時間超の労働と、高給を得て生きている。暮らし向きはよくなった。

ところが、それがために、人生の空虚さに怯えなければならなくなった。理想の人生を手にとった瞬間に、その空漠さに耐えられなくなる。空漠さ、すなわち真空。

苦痛こそが人生に意味を与えるのだが、私の人生は、快適さを追求する。快適であって、何が悪い?と思う、だれだって扇風機じゃなくてエアコンをつけるだろう。

私はたしかに、名誉とか、社会的地位を捨てて、田舎にきたものだった。皇居近くの商社で働く友人とか、三鷹の研究所で働く友人とは、もう会うことはほとんどないだろう。芸能界に憧れ、学位を捨ててプロデューサーに弟子入りした友人とも、会うことはないだろう。大学を中退して、音大に入ってプロ活動をしている友人とも。

名誉、地位、それはたしかに求めるべきものなのかもしれない。私は、生活の快適さをばかりもとめていたが、これはより低次の欲求なのだろうか?たしかに、立身出世は魅力的なものだ。実に生涯を捧げてもよいものにも感じられる。

いつかは社長に、いつかはプロデューサーに、という夢の引力が、人々を駆り立てる。彼らを見ていると、自分は何をしているのだろう、と感じることがある。人々があくせく目標に向かって努力しているというのに、自分は、日々を消耗させるだけ、最低限の仕事をこなせば、あとは酒を飲んで、読書をするだけというような、独居老人のような日々を送っている。

こんな人間は、ドラマとは程遠い人間だ。ゆえに、こういう人間は、人生経験に乏しく、いくら文筆家を目指したところで、だれの共感も得られずに死んでいくのである。

私は人間である、その意味で、永遠である。と叫んでみたところで、社長さんやプロデューサーは耳を貸さないだろう。私は人間である、そのままの人間だ、だから、それ自体で完璧なのである、と言ってみたところで、女たちは嘲笑するだろう。

私には、社会の仕組みがよくわからない。私がまるきり間違っているのだろうが、まるきり正しいという気もたしかにするのである。

労働の循環は、思考を鈍麻させる。つまり、これ以外の人生も可能である[可能だった]のではないか、という想定に、到達できなくさせる。そうだから、世の中のサラリーマンたちは、あれほど満足しているのだ。

これからの人生を、どう生きればよいのかわからない。私には、目指すべき指針がない。とりあえず、孤独に歩め、というメッセージを精神の内奥から感じるし、同時に、ある程度は(経済的に)富め、というメッセージを受け取る。

これは個人的な内奥というより、家族的・先祖的な要請であるらしい。というのも、私の先祖は豪農であり、かつては栄えた旧家であるから、ちゃんと稼げよ、という声が家族を通して、あるいは直接に響いてくるのである。

富むこと、そして、孤独であること。この方向で生きていこうか。

なに、富むことは悪いことではない。何年か前にも、年収2000万円を人生目標に掲げていたではないか。まともに絶望するのにも、金がかかる時代だ。金から解放されるためにも、金がいるものだ。

例え富んだとしても、孤独であれば、道を踏み外すまい。

ちょっと金儲けの方法も考えてみよう。

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