7.26.2015

ルソーを誤読する

ルソーを読んでいると、この人の精神性は、自分とあまりに似ていることに気がつく。

「人間不平等起源論」は、ぼくがつねづねここで指摘しているような、社会の欺瞞と、自然への憧憬である。

ルソーは、原始生活を送るような自然人と、都市生活を送る文明人を比較しており、両者をこのように対比している。

野生人は休息と自由を満喫しながら暮らしており、ただ生きること、何もせずにのんびりと過ごすことだけを望んでいる。
それとは反対にいつも何かしている都市の市民は汗を流し、たえず動き回り、もっとせわしない仕事を探していらいらしつづけるのである。彼は死ぬまで働く。……自分の憎んでいる権力者と、自分の軽蔑している金持ちに媚びへつらい、こうした人々に仕える栄誉を手にするためなら、どんなことも厭わない。
……自分の奴隷状態を自慢して、こうした奴隷状態に加わろうとしない人々を軽蔑する。

都市と田舎のこうした対比は、近代フランスでも変わらなかったようだ。

我々もまた、死ぬまで働くし、(それは寿命まで、という意味ではなく、本当に労働に殺されるのだが)、せかせか動きまわっているという点では、朝の新宿駅の競歩大会に参加すれば理解できるものだと思う。

田舎にいったところで、ブラック企業はあるだろうが、全体としてのんびりしている、というのが実感としてある。

例えば、ぼくはさっそく水道料金を3ヶ月分滞納しているのだが、東京であれば、赤字で「重要」の印がついた催促状が1週間ごとに届いたものだが、こちらではそうした制度はないようだ(なので限界まで払わないでみようと思う)。

ぼくが田舎に移り住んだのも、結局のところ、生を自分のために使いたいという思いがあったからであり、都市的な感覚についていけなかったということもある。

ルソーによれば、都市部の文明的な人間は、他者との相異に執着しており、「他人の目」をひどく気にしているということだ。たしかに、都市部のシティボーイは、一枚8000円のTシャツを何枚もクローゼットに備蓄しているようだが、ぼくはといえば、しまむらで買った500円のTシャツ3枚でこの夏を乗り切る予定である。

自然人には、人間に差異を見つける能力はなかった、というのがルソーの指摘である。つまり、自然人たちは、異性の美醜もわからなかったので、適当にセックスしてそれで満足していたということである。そして、自分の子どもを見分ける能力もなかったのだ(本当か?)。

ところが我々文明人は、人間は違うのだ、それぞれ個性を持っているのだ、という信奉を持っている。ぼくは何回か、人間それぞれの「差異」というのは、迷妄でしかないと書いたが、これはルソーの考えと一致している。

年収2000万円の人と、年収200万円の人とでは違う人間のように扱われるし、東大卒の高級官僚と中卒の豆腐屋さんは別種の生き物のように扱われる。

このような関係は、奴隷と主人の関係に似ている。つまり、主人は奴隷を必要とするために、差異という概念を植え付ける。すると、植え付けられた奴隷の方も、主人なしではいられなくなる。

この主人ー奴隷という関係、人間が人間を所有するという関係が、文明の根本基盤である……というようなことは、ルソーは一言も述べておらず、ぼくの勝手な発想だが、一面では事実だと思う。

そうだから、文明社会がもっとも恐れるのは、奴隷を必要としなくなった主人であり、主人を必要としなくなった奴隷なのである。それは、真の意味で独立した人間、一人であることに満足した自然人なのだ。

この自然人は、存在するというだけで文明社会の基盤を揺るがす脅威だから、潜在的レベルで、文明的人間に駆逐されていく。これは、小学校のいじめとか、職場におけるパワハラのような形で顕在化する。

例によって上のようなことはルソーは一言も言っていないのだが、妄想が先走ってしまった。

以前、権力とはなんぞやと考えたことがあった。そのときに、権力の根本原理とは、「離れられなくする」ことにあるとぼくは知った。

結局のところ、権力とは首枷に似たようなものだ。人間と人間の関係に働くある強制性ーー関係が強制性をもつことーーこれが権力なのだ。

ところで、首枷というメタファーは奴隷ー主人の関係を示すものに他ならない。そうして、国家とはひとつの巨大な権力構造であることを考えてみると、国家がおぞましい腐臭を放つ理由がよくわかるのである。

この意味は、国家とは主人ー奴隷関係の堆積物であるということだ。

整理すると、文明人の人間関係は強制性を持っている(権力を持つ=主人ー奴隷関係)。自然人の人間関係はそれがなく、非権力的だということである。

本著で有名なフレーズがある。「ある広さの土地に囲いを作って、これはわたしのものだと宣言することを思いつき、それを信じてしまうほど素朴な人々をみいだした最初の人こそ、市民社会を創設した人なのである」。

ここで、「ある広さの土地」を「ある数の人間」に変えてみてもおもしろいかもしれない。

まあくだらないことを書いた。ルソーは大好きだ。自分と似た人間という気がするからだ。

自分と似ている人間は人口比で言うと1%かそれ未満で存在するのだが、中島義道もその一人である。ただ、彼と似ていることは吐き気を催すが、ルソーと似ていることは嬉しいから不思議だ。













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