7.03.2015

外部の人間

実に雑多な夢を見て……起きる。

ふわふわと不快な気分、現実認識があやしい。

あまりに早く、七月が到来した、これまで、3回の給与が出て、60日程度、働いたようだ。もう十分だ、という気がする。労働は、ぼくを打ちのめすはずだった。しかし、ぼくは適度に順応した。仕事に何も期待していない分、失望もなかったようだ。かえって、就職活動のノリで仕事に向かった人の方が、悲劇を見るのかもしれない。

このようなはずではなかった、安定だけが人から能力を奪うというのに、その安定の泥沼に、見事に嵌ってしまった。

それにしても、世間の人より(かなり)多く貰っているはずだが、この給料は、こんなにも安いものかと思う。税金と、生活費によって、大部分をとられてしまう。余剰分は、ぱーと使ってしまおうという気には一切なれない。貯金、貯金、貯金……。

貯蓄額が多くなれば、消費に目が向くようになるのかもしれない。ぼくの貯金は学生時代の10倍程度になったが、それでも1万円の買い物に、二週間悩んだりする。服は、学生時代のものと、しまむらで間に合わせているし、食べ物は、毎日弁当を昼に食べて、夜も、軽い自炊している。それでも生活は、妙な窮屈感がある。

ぼくの給料は高い。だが、現実には、ほとんど何ももらえていないという気がする。ぼくの労働の成果は、大部分は、経営者と、国が持っていってしまう。消費税や、数々の税もそうだが、何十もの仲介者が、ぼくから少しずつ肉を剥いで去っていくようだ。返せ、返せ、ぼくの肉を返してくれ、と、こうわめいてもしょうがない。

しかし、これはあらゆる国でそうなのだから我慢するしかない。

資本主義は、拡大主義だ。個人が拡大していこうと望む、その結果が高給取りの経営者だし、こういう社会では、正義は消滅するから、官僚たちもまた権力に取りつかれる。彼らは社会的必然であって、社会のまま流れ着いた人々だから、ぼくは彼らを責めようがない。それなら、資本主義を廃せ、と時代遅れの革命家気取りになろうという気にもならないので、ぼくは相変わらず、傷だらけの身体を見て嘆くしかない。

日本という国を見ていると、正義の概念はどこにもなくなってしまったように思う。正義、善、真実のような概念は、いったいこの国には必要ないようだ。

アレックス・カーの「ニッポン景観論」は、一般向けの本のため、あえてあまり踏み込まれず書かれているのだが、少しだけ書かれている「工業主義」のムードが日本を支配している、というような記述が重要なのではないかと思う。

工業主義で、景観の深刻な醜悪さ以外にも、日本のいろいろな側面を説明することができる。それはウサギ小屋のような日本の狭い部屋もそうだし、日本人の文化的貧困(J-POP、軽ワゴン、ミニバン)や、ビジネス書や新書に見られる無教養主義、制服と整然とした机が支配する学校の教室など、まあいろんなことが、「日本人は工業主義なのだ」と考えることで説明できる(という気がする)。

工業主義とは、工業を優先させることではなく、かえって工業に飲み込まれることだ。それは資本主義が最後には国家を飲み込んだことと同様だ。



話が飛ぶが、「彼らは工業主義だ」と言うことはできても、「我々は工業主義だ」と表現することはできない。そのことは、認識できない。なぜなら人々は包み込まれているからだ。支配的なムードから抜け出した人間にしか、その集団を語ることはできない。

だから、世間的なムードから離脱した人間、コリン・ウィルソン風に言えば「アウトサイダー(つまり、「我々」を喪失した人間)」にしか、人間集団を正しく評価認識し、修正することのできる人物はいないと言うことができるだろう。

ここに孤独者の価値がある。つねにとまどい、困惑するこの人の生は多難で苦痛に満ちているが、種のためには良い働きをもたらすらしい。それは当節においては、狂気じみていて、異端者のように感じるかもしれないが、時とともに彼は評価されるはずである。

アウトサイダーは、種を超越した人物なのだろうか。それとも、それは「織り込み済み」なのか。この疑問は、なかなか重大なテーマである。もうひとつの概念もある。それは「失敗作」である。
彼は、欲望の充足に失敗した神経症患者であるがゆえに「アウトサイダー」なのであろうか?それとも彼を孤独に押しやる深い本能ゆえに神経病の兆候を呈するのか?(「アウトサイダー」コリン・ウィルソン)
ここでの記述は、精神の病的失調という「失敗」か、本能による「織り込み済み」と比べている。

最終的に彼はアウトサイダーの価値を認め、「全ての『アウトサイダー』には進歩への希求がある。」と評価するにいたる。

最初の疑問、「織り込み済み」か「種の逸脱者」か、という問題は、結局は人類が進歩しているか、それともわれわれはただの生命体であるか、という問題に帰着する。

つまり、われわれ人類がつねに「進歩」している生き物であれば、アウトサイダーは生物学的にその存在が必然なのであるし、そうではなく、人類が環境におかれた他の動物と同じに、ただ偶然にしたがって生きているのだとすれば、アウトサイダーは単なる失敗作、と言うことができるのかもしれない。

ぼくは紛れもなくアウトサイダーだが(それは友人が一人もいないという現実と照らし合わせてもそうだ)、どう生きればよいか、という疑問が消えない。過去の思想家や芸術家のようなアウトサイダーたちと作品をとおして心を通わせるとき、道が示されているような気がする。

でも、進歩主義は皮膚感覚のレベルで嫌いだ。人類は、進歩しているのか。このテーマは、もう少し考えてみよう。

1 件のコメント:

  1. 資本主義はやはりキリスト教的世界観から生じたので、やっぱり神の存在は大きいでしょうね。
    すべてが被造物であるという解釈のもとに能動―受動関係が呼び出され、そこから必然的に拡大or縮小という図式が導かれ、十字軍つくられ、資本主義が形成され、植民地を……。もともとは、ピュシスをこういった観点から都合よく解釈したことで科学が生まれたのですが。個人的には歴史的に見ても能動-受動図式は争わざるを得ない世界観であり、パラダイムであると思ってます。

    生意気なこと書いてすみません。

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