7.05.2015

激質の日

昨日のデスクは……。

実際のところそこまで良いものではなかった、と思う。20代の今ならいいけど、30代くらいになって、肌が乾燥し、雑多な病気を抱えるような年齢になって、あの空飛ぶアイロンプレートのようなデスクに座るのは、いささか滑稽であると感じる。


昨日は、大変な憂鬱に襲われた。憂鬱というよりも、激しい怒りに似た感情であった。違う、こうではない、というdenialの精神が、全身をカッカと熱したようであった。

そうだから、ぼくはこの一軒家で、叫び声をあげ、ばたばたと暴れまわった。何がぼくをそこまで苛立たせるのか知らなかった。昨日のデスクの記事を書いていて、それの後半部分がPCの電源が落ちてぜんぶ失われたときには、怒りでくらくらと眩暈がしたほどだった。

ぼくを襲うのは常に憂鬱だったが、ここまで怒りがぼくを支配したのは、珍しいことだった。

おそらく金曜日にくだらない飲み会に出席したからだろう。

会社に入ってから、飲み会に金を使ったことはない。ぼくはいつも先輩や社長の気に入った高級料理店や料亭で、うまいものをたらふく食い、うまい酒を飲む。運転代行も払ってもらう。それらは全部無料だが、正直いって、家で半額の惣菜をおかずにご飯を食べるほうが、ずっと幸福なことだった。

彼らは、「奢り」なのだからと、ぼくを引き連りまわして、餌付けし、感謝しろ、というような顔をする。ふざけるな、ぼくの読書の時間と、休息の時間を奪っておいて、絶対の時間=生命を奪っておいて、へらへら笑っていやがる。

醜悪な中年の連中、もう精神が生活に飲み込まれて、思考も、苦痛も感じなくなった人間、前にも後ろにも進もうと思えなくなる、あの類の、苦痛なき不幸に包まれた幸福な人間、預金額にばかり目がいって、時間の概念を失った人間。

ああ、退廃!

永遠、という秩序が、人間を高みにもたらすらしい。それは時間を超越した永遠性である。永遠とは、善であり、真実である。

循環し再生産されるマイルドヤンキーやサラリーマン、田舎の農家みたいな連中、シブヤノワカモノ、量産型大学生……日本人の99%は、刹那的に生きているだけで、「真理」という一点については、もはや考えないようである。

ぼくの怒りは、二時間程度の読書と、普段の倍の酒と、刺身と、カキフライによって贖われた。その副作用を避けるために、胃薬も投入した。これで、今日は、少し安定した。

自分の精神をコントロールすることにかけて、ぼくの技能はたいへん高いと思う。自分の肉体と、それに乗っかった精神と、折り合いをつけて生きている。

いったい自分が自分であることは、不思議なことだ。我慢ならないことであるし、ある程度は幸いなことであったと思う。ぼくには、自分の精神と、肉体は、第三者的であるように感じる。

上のふたつとは別に、絶対主体的な、魂のようなものがあると考える。というのも、ぼくはこの精神に振り回され、肉体に振り回されているから、どうも「自分のもの」という気がしないのだ。

昨日は聴覚過敏者のサイトをいろいろ見ていた。ぼくは最近になって、自分が聴覚過敏だと知った。いや、単なる自己診断なのだが、これを書いている今も、耳栓と、射撃用のイヤーマフをつけているから、聴覚過敏だと言えるだろう。

聴覚過敏者のブログを読んでいて感じるのは、彼らはたいてい文章がうまいし、書くことも好きだということである。どうも記述という行為は、精神・神経的な障害と、折り合いが良いらしい。

耳が、我慢ならない。ぼくはついでに、視覚過敏も持っているかもしれない。昔、野球をやっていたけど、グラウンドに反射する太陽の光がまぶしくて、まるきり耐えられなかったことがある。太陽を直視できたソクラテスとは反対である。

まあ、往々にして、神経症患者というのは神経過敏をもっていることだろう。

ぼくはもう、こういう性質なのだということで、自分を肯定することにした。光や音が苦手なら、それからあきらめて逃げよう、と思った。病気=治療すべきものという考えが、ぼくを長い間苦しめてくれた。でも、実際のところは、ぼくよりも社会や集団のほうが、ずっと病んでいた。

自分の健康さには、おそれいる!ぼくの血液検査の良好な結果を、ここに掲げてみたいものだ。毎日酒を飲んでいるのに、肝臓値は健康だし、善玉コレステロールが基準値より多く、悪玉が少ないのである。そして、血圧も、血糖値も、最良の結果をたたき出している。

実に、生活習慣病のひとびとは、病んでいるといえるだろう。彼らは甘いものを食べて糖尿になる。しょっぱいものを食べて血圧をあげる。油っこいものを食べて高脂血症になる。

食べるということへの無関心さ!生活に絶対的なゆたかさがなくなると、人はこのような退廃に落ちるらしい。もはや自分が何を食べているかすら、彼らにはわからないのである。もっとも原始的な感覚――嗅覚、味覚の麻痺。健全な食欲の喪失。

健康法ということでいえば、もうシャンプーをしなくなって半年くらい経つ。夏になっても割と具合がいいようである。あの合成洗剤を頭に振りかける行為は、まったく理解できない。化学工場と皮膚科とグルになってるのか、と思うときがある。

まあ、このような健康自慢はどうでもいいことだ。ぼくはどうせ、長くは生きられないという気がしている。だからこそ、狂ったように書きまくっているとも言える。

今日は、とくに何をする気も起きない日だ。暇ついでに、トーベ・ヤンソンで良い文章があったのでここに書きたい。
いまではわたしもカリンを嫉妬せずに愛している。贈りものをしようとする。彼女が必要とするもの、好きなものならなんでも。ところが彼女はいつでもまず浴室(バスルーム)にいってひとりになり、贈りものをうけるべきか否かを神と相談する。うけてよいと思われる例外もあるが、たいていは海に投げ捨てられる。カリンがとくに気にいったものは、なにがなんでも海に投げ捨てられねばならない。
切り抜いてみると、そう良いものではないかもしれない。

馬鹿みたいに多弁な日だ。今日はどこか遠くへ行こう。

0 件のコメント:

コメントを投稿