7.24.2015

DONUTS donuts

我々が認識できるのは、ドーナツ的世界でしかないということだ。

我々には例えば100年後とか、銀河の外のような時間的・距離的遠景を知ることはできない。この意味は、「世界とは何なのか」という命題の回答不可能性を示している。

それと同様、自己自身の内奥もまた、わからない。なぜ自分が生まれたのか、自分が自分である理由はどういうことなのか、といった哲学的命題は、いまだ人間の知性は到達できていない。

そういうわけだから、我々が認識できる世界は、近すぎても遠すぎてもいけない……中心の欠けた、限界的な広がりを持つという意味でのドーナツでしかないのだ。

ドーナツの外側と中空をどう埋めればよいのか?

そこには奇跡だの、神だのが入るのだが、これらは非言語的な領域である。というのも、我々は「神とはかくなるものなり」と言葉で説明するのは簡単だが、神的体験は結局のところ言葉で説明することができないからだ。

ドーナツ外(あるいは内)は、言語化不可能の世界である。

例えば大麻でラリパッパの体験をしたとする。この体験は、いくら言葉で説明しようとしても難しいものだ。もっともかなりの領域まで描写は可能である。しかし、こうしたラリる、という通常の精神構造を逸脱した体験は、根本的に言語的世界(ドーナツの身)の外側(内側)に位置するのである。

それは統合失調症患者の世界とか、自閉症患者の世界が、「なったことがなければわからない世界」であることと似ている。例えばドナ・ウィリアムズの「自閉症だった私へ」を読めば、ある程度、近似的世界を知ることができる。しかし、それは翻訳されると同時に失われてしまう体験である。

麻薬中毒者、精神疾患患者のもつ世界は、ある程度このドーナツの内側に踏み込んだものである。

ところで、ドーナツはふたつの外領域を持っている。それは内と外の領域であるが、これらは可分なのだろうか?実のところ、ドーナツを二次元的に考えれば中空は断絶されており、三次元的に考えれば中空も外界も同じ虚空である。

自己の精神が、世界の遥か広大な構造とリンクしているのか否か。

このことの答えは、瞑想に耽ることで世界を知ろうと試みる禅僧が参考になる。つまり彼が体験しているのは、客観的にはただの自己の精神内奥(精神の中心点=中空)を探究しているだけに過ぎないのだが、彼はそこで宇宙の真理を手にすることを望んでいるのだ。

こういうわけだから、内は外、外は内ということが言えるかもしれない。自己=世界的な認識である。


とまあくだらないことを書いた。

ある仕事の期限が迫っている。来週の土曜まで……。本当に、時間がないので困っている。ゲーテも読みたいし、ルソーも読みたいのだけど、そんな時間は許されていないというわけだ。

仕事の要求が、ぼくを飲み込んで行き、ついにはぼくはその環境に適合してしまうのではないか、と恐れている。道具=隷属化した人間。よく考えてみれば、就活って「最良奴隷選手権」だったよなあ、と思う。

2 件のコメント:

  1.  ドーナッツである自分は本当の自分ではないから、真なる自分を求めるときに瞑想や信仰に身を委ねるのかもしれないですね。ただ、真なる認識というものがあったとして、それにたどり着きたいと本当に思っているのか。それとも、たどり着きたいのにたどり着けないという、ヒロイズムやナルシズムに酔っているだけなのか。そこが難しい問題ですね。

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  2.  これは現象学的な問題です。
     
     意識主観は世界において〈私〉の呼称をとります。どのような他者も各々を〈私〉として生きています。生活世界は〈私〉に結びついた数々の意味連関を、意識主観がそこに繋ぎとめられた〈私〉であるがゆえに、そのうちに〈私〉を内包する世界を〈私〉へと顕現せしめます。世界とは〈私〉が見、感じて、考え、現に生きている世界を指します。一般に、意識主観はこの世界において〈私〉としてのみ行為可能です。意識主観は〈私〉が遭遇した経験、体験を〈私〉のものとして捉えています。カントはこれを「統覚」と呼びます。

     よく議論される「私とは何か?」とか「本当の自分とは?」という問いは〈私〉という語をこの問いを問う意識主観自身が用いることで、その背景(フッサールで言うところの「庭」、ここではその世界の意味連関すべて)を連れ出してしまいます。ゆえにそれは世界およびその意味連関とは何か、という問題に必然的になってしまいます。

     でも、本当は〈私〉はこの世界において〈私〉となったのであり、(当然それ以外の世界を知りませんが)この〈私〉であると自身が考えるところの基体(モナド)それ自身は〈私〉でもなんでもないのです。それはドーナツの穴、不気味なもの、深淵です。これらは言語で語ることは出来ません。それは〈私〉の世界に属していないからです。
     「悟ろう」という意志を伴なった行為は、世界の意味連関に繋がれた〈私〉による〈私〉あるいは世界(世界は私の主観内にしか顕れない)の説明に他ならないのです。それはもう「悟り」そのものでなく、〈私〉によって繋ぎとめられた、この世界を構成する空疎な概念の一部に過ぎません。
     「悟り」は意味連関=〈私〉の次元においてはあり得ず、〈私〉が限りなくドーナツの穴に近づくとき、つまり言語を超越するときに生じる出来事ではないでしょうか。それは言語化できないものなのです。「あれは悟りだった」という体験の言語化は、基体が〈私〉である世界に戻るときはじめて行われるものです。我々は〈私〉でない部分を生きているはずです。しかし、それは意識主観が〈私〉とならないことには生じない出来事です。
     
    酔った勢いで書いてしまいました。参考になれば幸いです。
    仕事頑張ってくださいね。僕は来年に控えた就活を考えるとイヤになりますが……。それでは。

    哲学科の学生より。

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