7.09.2015

I would prefer not to

生に倦みながら生きている。

いったい幸福とは何か、と思う。この日常は、たしかに幸福なのだろう。

昨日の仕事は暇だった。仕事が終わると、図書館へ行って本を読んだ。うるさい人がいたので、そうそうに切り上げて、コンビニへ行った。この港沿いのコンビニには、猫がいる(黒猫は、美しいと思う。なんとか猫が飼えないものか)。ツナパンを買って与える。ついでに酒も買っておく。

家に帰って、半額で買った豚肉と、キムチを炒める。地産のネギをたっぷり和える。うまい。そこそこ酔うと、自然と床につく。

とくに何をするでもなく、日常が過ぎていく。

もともとの夢とか、希望のようなものは、生活の循環のうちに磨耗していって、今ではなにかあいまいなもの、思い出そうとしても思い出せない遠く灰色のものになってしまった。

ぼくはある程度の人物になろうと努力していたようだ、教養を身につけ、読書の習慣を続ければ、ちょっとした国際的認知度もあるくらいの大人物になれる、という気がしていた。

今ではそんな感情も消えうせてしまった。ぼくは凡庸なディレッタントだ。ボンヨーナ・ディレッタント。

自分が何か特に優れているとは思えないし、それどころか、基本的には無能であるとすら感じる。

バートルビーは絶対的に正しいと思う、I would prefer not to……彼は雇用主を助けることを拒絶し、働くことを拒絶し、食べることを拒絶する。

I would prefer not to
バートルビーはあらゆる拒絶をする。しかし、決して激しい拒絶ではない。丁重に、静かに、冷ややかに、しかし(過剰に)礼儀正しく、力強く、拒絶をする。

働くこと……それはたしかに、「できればしない方が望ましい」ものである。そうして、食べることも、究極的にはそういった類のことだ。

食べることの拒絶は、仏僧でも、キリスト者でも、ムスリムでも見られることだ。もはや行為しないこと、絶対の境地。「ああ、バートルビー!ああ、人間!」。そう、バートルビーはただの人間だった。思考が行為を超越した人。

と、唐突に「バートルビー」の批評が始まる。批評と言えるのかはわからない、批評なんて書いたこともないからだ。批評とはつまらない仕事だと思う。ドゥルーズも今考えるとつまらない人間だったと思う。

ひろさちやの本を読んでいると「我々の社会では、『人間』であることが禁忌なのです」というようなことが書いてあった。ぼくらはニートでもダメリーマンでもオタクでもDQNでも存在することを許される。しかし、彼らが「人間」になったとき、あるいはなろうとするときには、世間、社会、大衆が牙を剥く。

これは皮膚感覚で同意できることだ。ついでに言ってしまえば、フーコーと合わせて考えると、精神疾患者は実に「人間らしい人間」であるといえる。

社会が成熟していき、社会構造が密に堅固になるにつれ、人間は疎外されていく。だから彼らは犯罪者と同じく幽閉されるのだ。かつては、キチガイや白痴は、とくに阻害されることもなく、人々と共生していた。今ではほとんど例外なく、精神病院の狭い部屋のなかに幽閉される。社会から「見えないもの」にされる。

バートルビーも間違いなく「狂人」であるけど、それは裏を返せば人間的であるとも言える。狂気は、実際のところ、とても人間らしい要素だ。われわれは狂気を、常識から遠く離れたところにあると考えるけど、実際は理性など狂気の上に乗っかった小さな浮き舟に過ぎない。創造の深遠を知りたければ、この狂気に飛び込むしかない……。

のかもしれない。


家を建てる、ことを夢想するのが楽しみになってしまった。べつに豪奢な生活がしたいわけではない。「他人の家に賃貸で住む」というのが気持ち悪いのである。当たり前の感覚ではないだろうか?

あと、日本の住宅は(トイレを除けば)ほとんど途上国レベルだと感じる。これがぼくを苛立たせる。

そうだから、実家の畑に小さな家を建てようと思う。畑の真ん中の、車の騒音も届かない場所だ。

日本で他に住みたいところといえば、北海道がある。あそこは大陸の雰囲気を持っている。実のところ、日本は雨が多すぎる。そして湿度が高い。快適な生活とは程遠い国だ。北海道でも札幌は豪雪地帯だからダメだ。網走あたりがいいだろう。

とはいっても、家を建てるとなれば、金を稼がなければならないので、大変だ。それに、家という財産を持つことが、個人的には恐ろしい。ぼくはもう少し世捨て人的であったと思うのだが。

ともあれ世界旅行は今の職場を離れたときにしたいと思う。外国に移住するか、日本に「根をもつ」かは、そのあとに考えればよいことだ。


丸山真男をあいかわらず読んでいるけど、物質主義から精神主義への脱却がファシズムの兆候だと指摘されていた。言われてみれば、かつての日本はきわめて精神主義的であった。現代でも、ブラック企業はきわめて精神主義的である。だから、一日8時間できっちり仕事を終わらせるよりも、12時間だらだら働いた方が評価される。

会社は利益をあげる組織ではなく、人生を捧げる組織になった。その結果が、成果のともなわない超過労働であり、一人当たりGDPの低迷である。

ところで、丸山真男の指摘は、空恐ろしいものである。国粋主義とは無縁と思える左翼的なスピリチュアルな感性が、けっきょくは国粋主義に流れていくという実情を示しているからである。たとえば、脱アカデミズム、反権威主義、あるいは神秘主義のようなファシズムと(一見)相反するような傾向が、結局はファシズムに行き着くということを示しているからである。

人が資本主義からも社会主義からも離れたときに、ファシズムが待っているのだろう。

富、これを考えねばならないと思う。

2 件のコメント:

  1.  今朝は、TVで老老介護の末に配偶者を殺してしまったという介護殺人の特集をやっていました。人間はどれだけ自由を手に入れたとしても、最終的には喉からチューブを通され糞尿を処理してもらい、自分が誰かも相手が愛する妻だと言うこともわからなくなって死ぬわけです。愛する家族や世間に迷惑をかけて生きたくない、その苦しみから逃れるために、死を望む人の姿は、まさに社会が「人間」というものを社会から遠ざけた結果といえます。そして、事態は今更に悪い方向へ進んでいると言えます。それは、バイオサイエンスの急速な発展です。我々は老いや病気、死すらも超越し、ビジネスとして社会に組み込もうとしている訳です。それは、人間を管理する側と死や貧困に怯え、管理された自由を享受する側に分かれた社会です。つまり、ここで顕現するのはファシズムだと言えます。

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  2. ハーバードとニューサウスウェールズの共同研究によってネズミを使った若返りの実験が成功したようです。2014年には既に人体への投薬実験を実施するという記述もあり、これが実際に成功したと仮定すると、新たな権力構造に組み込まれるのは、早いか遅いかだけの問題とも言えるでしょう。     
    http://gigazine.net/news/20131225-anti-ageing-human-trial/ 60歳の高齢者が20歳の若者に戻ることに匹敵する「若返り」がネズミによる実験で成功 

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