7.08.2015

zacc

昨日はくだらない国家論を書いた。ネットの知識をつぎはぎにしたような稚拙な論考だ。

いったい自分はこの国のことをまるで知らない。日本という国家については、ほとんど避けていた。ぼくは外国の文学や思想ばかり読んでいた。舶来品をありがたがっているわけではない。単純に、翻訳されるだけの価値がある作品は質が高いからである(古典はさらに質が高い)。

だから日本人論ということについても、新渡戸の武士道とか、葉隠みたいなほとんど的外れな本や、日本通のガイジンの書いた、ヴァン・ウォルフレンとか、アレックス・カーみたいな、日本人は不幸だ……というような本しか読んでいない。

日本人は幸福だ、と最近のメディアが騒ぎ立てるから、その反動で、ぼくは日本人はまるきり不幸なのだ、と思うようになってしまった。日本のマスメディアはぼくには不可解な存在だ。外国人にとってはもっと不可解だろう。

たしかに、この国には問題が多い。何度も繰り返し述べたように、この国は法治国家ですらなく、民主主義国家でもない。だから、先進国的な条件からは逸脱している。だがこれは東アジアにおいては普通のことだ。日本人はたいてい、中国人や韓国人を嫌うけど、ぼくには中国という国家が不可解なのと同じくらい、日本人が理解できない。

ただ、それがいちがいに悪いとは言えないのかもしれない。不明瞭な空気が支配する国家であって、何がいけないのだろう?

それはあくまでもひとつの「国家」の形であって、国家が「民主主義」であったり、「法治国家」であることが求められるのは、近代以降である。それまで数千年は、日本は君主国家だったのだし、21世紀の現在もたいして変わらない寡頭政治である。ただ、ぼく自身は民主主義に偶像的信仰心は抱いていない。「情」治国家の日本は、たしかに生きづらいが、大部分の人にとっては快適なのだろう。


話を戻すと、昨日読んだ丸山真男の「超国家主義の論理と心理」が、たいへんこのあたりの無知を補ってくれた。まだ、その短い論文を読んだだけだが、ひさしぶりに知的な興奮を覚えた。日本とはなんだ、ということを知ろうとするなら、丸山真男がいいのかもしれない。

ごく最近、自称イタリア人社会学者が、「昔はよかった」病という本を出したらしい。ぼくはこの人のことも好きだ。

ぼくもまた、同病にかかっているのかもしれない。でも、やっぱり日本人は不幸だ、と思う。シモーヌ・ヴェイユの「労働と人生についての省察」で、ヴェイユは、ルノー工場で労働者として従事する。これ、現代の日本人からすれば皮肉にしか見えないだろう。

ヴェイユはさんざん、労働環境の劣悪さを嘆く、もうやっていけない、とこぼしたりする。それでも、労働は8時間で終わるのだ!日本人は、たいてい、10時間働いている。それに、首都圏であれば、通勤時間が二時間……。長期休暇は、ない。残業代も、ない。


やはり、ぼくらの労働の成果=富が、どこに運ばれてゆくのかは、まったくの疑問である。それは不可解な公共事業(なんたらピックの建物に象徴される)や、不可解な海外援助に消えていくのかもしれない。あるいはもっとありきたりに、天下り団体の私腹に入っているのかもしれない。

富の流れを、GPSでもつけて、追えるようになれば楽なのに、と思う。今くらい技術があれば、Googleあたりが開発しそうだけど。

と思ったら、イギリスですでに開発されたらしい。Where Does My Money Go? というサイト。これ、少し前にアメリカで流行った曲のタイトルだったと思う。日本版もある。自分の払った住民税がどのように使われるか知ることができる。(でも、ためしにやってみたけど、ぜんぜんすっきりしない)





まったく関係ないが、海外サイトの美しさはなんてことだろうと思う。上のサイトも、イギリスのサイトを元に作っているようだが、海外サイトは、デザインの基本をしっかりと抑えている。デザインの基本とは、別に何時間も勉強する必要はない。ただ美しさの条件を整えるだけでいい。

美しさの五箇条は、以下のとおりである。

  • Keep It Simple
  • Use Meaningful Symbolism
  • Use 2-3 Basic Colors
  • No Lettering Or Seals
  • Be Distinctive

つまり、シンプルにする、意味のある記号を用いる、2~3種類の基本色を使う、文字や紋章は入れない、特徴的(個性的)であること、である。

これはTEDの「ローマン・マーズ: 街の旗が、誰にも気づかれない最悪のデザインになる理由」から持ってきたものだけど、たしかにぼくが良いデザインだと思うものは、ほとんどがこの原則を守っているので感心する。

アレックス・カーの「ニッポン景観論」における日本の醜悪な都市に対する批判も、上のような基本的なデザインセンスの欠如に由来するものがほとんどだった。つまり、日本は「ゴチャゴチャしていて」「無意味な記号で溢れ」「色彩は雑多で」「文字や注意書きだらけで」「まったくの無個性」なのである。

無個性、というのは、説明が要るだろう。日本の地方都市はどこも変わらない。

たとえばこの画像がどこかわかるだろうか?


東京、大阪、名古屋、福岡、宮城、広島、ある程度栄えた都市なら、どこでもあてはまりそうな光景だ。遠くに山があるから、東京ではないかもしれない?ちなみに正解は京都だ。

あるいは日本的デザインの象徴はサイトデザインに表れているかもしれない。

もっとも大衆的商業サイトと比べるのは酷かもしれないが

本当に、日本人は文字が好きだと感心する。漢字が象形文字だからかもしれない。ぼくのドラム式洗濯機も、せっかくのいいデザインが日本語で埋め尽くされて台無しだ。

車のデザインはさすがに常識を守っているようで、給油口にでかでかと「給油口」と書かれたステッカーは貼られていないし、ドア・モール付近に「危険!指挟み注意!」とかいう注意書きもない。ハンドルに「警告:前を見て運転してください」とか書いてあるわけでもない。この点は、ぼくが日本車を評価できる点である。

でも、日本が法治国家である必要はないのと同様、デザインの原則など守る必要などないのかもしれない。ただ、日本人も潜在意識では美に対する意識をもっているようで、たとえばiPhoneがあっという間にスマホを駆逐してしまった。

ああ、くだらない。こんなことはどうでもいいのだ。

最近は時間が本当にないのだ。精神を深化させるような時間もない。一日、二時間読書するのがやっとだ。それだと、ぜんぜん読書が進まない。

心境の変化がある。海外移住が当面の目標だったが、実家の畑の土地を借りて、そこに家を建てようかという欲望が沸いてきた。畑は人里離れた場所にある。二重窓で、防音性と断熱性を徹底して、セントラルヒーティングで年中快適、好きな木材を使って、好きなデザインの家で暮らせば、それは幸福かもしれない……ということを考えたりする。

とはいっても、家を建てるには3000万円くらいかかるらしい。それくらいの金を作るには、10年や20年かかってしまう。

自分で建てれば、1000万円以下で済むだろうか?と考える。二年くらいかけて、勉強しながらコツコツ建てれば楽しそうだ。それで2000万円の費用が浮くとすれば、無職期間も悪いものではない。

ただ、ぼくの実家は最近箱根の噴火をくらいそうで、それが不安なのだが……。

ともあれ、今日も仕事にいこう。ひどく雑多なことを書いた。

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