8.10.2015

ある錯誤

日本についてある錯誤があったのだが、それは日本は法治国家であり、民主主義国家であり、それがゆえに、我々の人権は保障されている、というものだった。

だから私は大学でパワハラを受ければ、それに対して抗議したし、自分の権利が侵害されようとしたら、懸命に主張した。

たとえば、不動産屋で退去費用で法外な値段を吹っかけられたら、簡易裁判をしようとしたし、危険な割り込みをする自動車には、クラクションを鳴らし続けた。隣人がうるさければ、警察に訴えた。まあ、こんなことは軽微なことだが、それでも、私は自分が個人としての権利を持ち、あらゆる個人や組織に対し「平等」であるという感覚を持っていた。

それがために、原発の事故のすぐ後では、客観的事実(つまり放射能は危険だという事実)を、大学のプレゼンで発表したのだが、それで袋叩きにあった。たしかに私の調査が甘かったこともあるが、しかし、結果的には、プレゼンで発表したとおりに、甲状腺がんは増え続けた。私はこれが事実である以上、公にすべきであるし、ただの学生ではあったが、科学という場でその公表は容認される、と信じていた。だが、ひとびとはそれを不当だと判断した。「言っていいことと悪いことがある」と判断した。彼らは、混じりけのない正義の感情で、私をつぶした。

しかし、今考えてみると、私は「西洋個人主義」とか、「近代合理主義」に被れていたのだ、という風に思う。それはある種の幻想だった。私の行いは、おそらく、西洋であれば自然に行われていることだろうが、ここ日本においては、まったくの異端でしかなかった。

この原因を考えてみると、大学で、読書に目覚め、西洋的な思想家の書物を読みふけったからだと思う。政治的な事柄や、思想的なことについては、私の両親はまったく何も教育してくれなかったし、また、友人たちもそれらについて無知だった。孤独が私を思想に追いやった。苦痛が私を哲学に追いやった。そういうわけだから、私は哲学や思想を身につけて、次第にそれは血や肉にまで同化してしまった。

私の中に根付いた西洋精神が、私を生きづらくさせているのだと感じる。かといって、いまさら西洋の理想が根付いた自分から、これを引きはがすことも難しい。

プロセスが必要だ。私は西洋精神(というかキリスト教的精神)を知ったが、日本のことをまるで知らなかった。日本のことを調べてみようと思う。日本的なもの、非キリスト教的なもの、アニミズム、土着の精神、呪術。私は、西洋的なものは絶対的ではないと思う。西洋精神は進歩的だが、進歩的であるという理由で必ずしも肯定すべきではないと思う。究極的には、人間は進歩しているのか(すべきなのか)という問題になりそうだ。

4 件のコメント:

  1.  何を優先させるのか?という問題は、様々な現実の事象を理解していなければ本質的な意味での合理的判断にはならないし、例え全ての事象を理解していても認識の価値基準が違えば当然の結果として判断が異なってきます。例えば、アメリカ人にとって原子爆弾の投下は戦争終結のためのやむを得ない措置であり、合理的であったと考えられています。また、キリスト教信仰しない異教徒は殺してもやむを得ないとの認識や、黒人奴隷制度や植民地支配などの認識により、要求に応じないから合理的判断によってやむを得ず侵略した訳です。
     原発事故の被害についても、仮に甲状腺がんなどのリスクが加速度的に高まったとしても、経済的側面と健康被害の側面とを天秤にかけ、各々の合理的判断力に基づき選択するわけです。例えば、日本は現在高齢者の比率が高く、寿命から考えて、健康被害によって被る不利益よりも、原発を止めることで生じる経済的損失の不利益のほうが重いと判断することもあるでしょう。ですから、当然原発推進を押し留める研究データや論調は抑制されるのが合理的判断と考えられているのではないでしょうか?

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  2. あなたが述べているのは、功利主義であって合理主義ではないでしょう。

    と思ったのですが、辞書で調べたら、日本語の「合理主義」にはそういう用法もあるんですね。私がここでいう合理主義とは、理性主義rationalismの方です。まあともあれ、これはあなたの誤読です。

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  3.  なるほど、確かに合理的という言葉から功利主義と混同し誤読していたようです。失礼いたしました。また黒崎さんの考えている理性及び理性主義ということについて教えて頂ければ幸いです。

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  4. 特にwikipediaの定義以上の意味はありません。

    すなわち、「理性主義(りせいしゅぎ、英: rationalism)は、確たる知識・判断の源泉として(人間全般に先天的に備わっている機能・能力であると信じる)「理性」(希: λόγος、羅: ratio、英: reason)を拠り所とする、古代ギリシア哲学以来の西洋哲学に顕著に見られる特徴的な態度のこと。 」です。ようは理性を信じることです。

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