8.13.2015

西洋と東洋

寄る辺のなさを感じる。

昨日はひさびさに大学の友人と会った。院生の彼は、まあ、元気そうだった。彼は去年からまるで変っていなかった。それだけに、私は変わったのだと、感じた。

私は変わらなくてはならないし、また、あらゆる人から、離れなければならないのだろう、と思う。私は直線的に生きねばならないのだと思う。循環できないのだ。

キリスト教以前の時間は循環していた。秋が終われば、また冬がくる。冬が終われば、春が……。これが循環する世界である。子どもを作り、老い、死ぬ、それも循環のサイクルだ。

キリスト教が、直線的な時間軸を作った。それはつまり、天地創造と、最後の審判とを結ぶ、ひとつの直線である。

循環と、直線の、ふたつの巨大なイデオロギーがある。西洋はほとんどが直線で……。日本はちょうど半々ぐらいなのだと思う。

私は、どういうわけか、直線に生きることが運命づけられているらしい。つまり、私は「進歩」の側にあるのである。この前は、私がこういう性質である理由を、大学で西洋思想に「かぶれた」からだと思っていた。しかし、考えてみれば、もう生まれ持った性質なのかもしれない。

私が私である以上に、私の精神の病的な性質が、私を支配してしまった。もう、神経症になってから、十年以上になる。いよいよ、生まれてから今まで、神経症である時間の方が長いくらいになった。

昔であれば、自分の精神の病を、家庭環境や、学校におけるトラウマに求めようとした。つまり、私は正常に生まれてきたのに関わらず、外的な要因によって捻じ曲げられてしまったのだ、と考えようとした。「毒親」「学級制度」「トラウマ」など。これは、一般的な精神医学の考え方でもある。つまり、あるエピソードに求めようとしたのだ。精神を記述しようと試みたのだ。

ところが、現実には、鬱病の原因がゲノムにあるように、私も遺伝子の規定によって、自分がこうなるよう運命づけられていたのだ、と感じる(そう、運命なのだ。ゲノムとは運命以外のなんであるか)。

私がどこに生まれようと、だれの元に生まれようと、私は神経症だったのだろう。もっとも、今のような症状になるとは限らない。形を変えるかもしれない。ドアノブの不潔さに耐えられず触れなかったかもしれないし、ガスの元栓が気になってどこにも出かけられないかもしれない。

とにかく、私は病的な精神をもって生まれた。それは、たまたま現代では病気という扱いだが、私は、自分の病気をある程度愛している。その意味で、私は自分の病気を、病気だとは考えていない。私はたしかに、十余年、苦痛を感じはしたけれど、苦痛の分だけ美しいものを知ることができた。苦痛の分だけ、目を覚ますことができた、と、そう感じる。

話が散漫になった。

私の病的精神が、私を孤独においやった。私は循環から阻害された。孤独のうちには、何もなかったから、そこに神を見つけるしかなかった。だから、私は神対自己という直線的イデオロギーに組み込まれた。私は、循環の世界に生きるには、苦しみすぎたという気がする。

西洋的なもの、直線、理性、「ズルい」人々。苦しむ人々。

東洋的なもの、循環、感情、「白痴」の人々。苦しまない人々。

どちらが良いのか、なんてことはわからないが、自分がどちらであるのか、またどちらであるべきかを考えることは有益であると思う。

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