8.16.2015

西洋と非西洋

阿部謹也の日本人論はたいへんおもしろいと思う。私が疑問に感じていた、日本と外国の違いを、独特な解釈でもって説明してくれる。

結局のところ、フーコーの言ったように告解confessionが個人を生み出した、ということになるようである。つまり、神と対峙し、自分の罪を告白すること、告白し、許しを請うこと、この行為の連続が個人を育んだ、と。

阿部によればこの告解はそうとう生々しいらしい。妻とこんな体位で何回セックスをしました、とか。そんなことをも話さねばならない。セックスをしなくとも、自慰をしても告白する。どんな妄想で自慰をしました、とか。

この告解が重要な意味を持つ。というのは、個人として私はこういう行為をした、この行為は私に責任がある、と自分の行為の原因を自己に求める行為だからである。

この責任というのを考えてみると、私は「だれも責任を取らない」日本人の態度も、説明がつく気がする。つまり、彼らは自由ではないのである。自由ではないということは、責任をとりようがないということだ。ということは、「原子力村」には責任があるけれども、そのなかの個人をとりあげて「こいつが悪い」という風には言えないことを意味する。

阿部謹也の思想を考えるうえで重要なのは「社会」と「世間」という対比であり、「社会」とは西洋的なモデル、つまり個人が集まって社会を作り出すという社会である。この考えを根底として、民主主義が生まれた。これに対して「世間」というのは日本における抽象概念であって、個人はこれに帰依することによって生き延びることができる、そういったシステムである。そんで、これには個人は存在しないことを特徴とする。

個人が存在しない集団?そんなものが存在するのか……。と考えるかもしれないが、ニーチェが言ったように、「個人とはまことに近代の産物」なのであるし、ここで何度も書いたことだが、フロイトが驚愕したように、「集団は個人に先立つ」のである。

集団の心理とは最古の人間心理である、われわれはそう結論づけねばならない。集団の残渣をすべて軽視し、その上で個人心理としてわれわれが孤立させたものとは、もともとの集団心理から、後になってようやく徐々に、いわば依然として一部だけその輪郭を浮かび上がらせたものなのだ。フロイト

それにしても、個人individualという言葉は当然のように現代日本の我々が使っている言葉であり、西洋概念をよく理解しているように思う。しかし、阿部によれば、我々が個人と使うときと、西洋本来の意味とはまた違うのだという。

例えば我々の個人というのは、会社内での自分の立ち位置とか、仲良しグループのなかでの自分の位置づけといったような、ある集団内の位置づけということになる。集団という基礎づけが必要なのである。たとえばクラスで完全に孤立した人間は、「個人」としての尊厳など与えられない。これに似た構造は、会社の「追い出し部屋」にも存在する。

これに対し、西洋の個人はまったくの孤独であることが可能である。個人が基礎付けになって集団が作られるようになる。

以上を踏まえると、「個人を前提として集団が作られる」、これが西洋的モデルであり、「集団を前提として個人が作られる」これが日本的なモデルということができるのかもしれない(このようなことは、阿部は述べていない)。

西洋⇔日本という対比だが、これは別に日本に限った話ではない。本来は西洋⇔非西洋とすべきである。というのも、どんな未開の部族においても「個人」という概念はおそらく存在しないからである。阿部によれば西洋においても11,12世紀までは存在しなかったのである。

このことの意味は、西洋はある程度「逆立ちしている」ということであり、非西洋である日本は正立しているのである。もっとも、逆立ちした西洋(個人が集団を生むという逆立ち)がより「進歩的」ということはできるかもしれない。ただその一方で、より自然な生き方をしているのは日本と言うことができるだろう。

日本の不幸は、西洋概念を受け入れる際に失敗したことにある。「我々の社会は民主主義国だ」と言ったところで選挙は茶番であり、「我々の社会は法治国家だ」と叫んでもブラック企業の経営者が自民党に入るのだから、冗談としか思えない。

私はこういったギャップに気づかなかったから、何年も苦しんだ。「だれが何のためにここまで私を苦しめるのか?」と思い悩んだ。しかし、日本に「社会」は存在せず、不可解な論理が支配する「世間」しかないのである。結局このことを知って、いろんな疑問が氷解したように思う。

1 件のコメント:

  1.  本当の個人とは、自分で自分を切り刻み、分析することを当然とするモナドです。自分自身の腹をメスで開き、中の臓物を掴み出し検分するのです。
     ぼくは、こういった〔神が死んでもなお生き続ける地の国〕の原理が、我々の日本的世界の掟やものがたりと変に結びついてしまっていることが危険だと感じています。黒崎さんの文章もそのことを示唆しているように感じました。
     ぼくたちは科学的思考によってもはや世界から切り離されている。神話さえ忘却してしまった。それこそが世界であるのにも関わらず……。

    返信削除