8.02.2015

「ただのバカ」ではない日本人

林秀彦の「日本を捨てて、日本を知った」という本が、たいへんラディカルな日本人論(非日本人論)を展開しているので、おもしろかった。林氏は19歳まで日本で暮らし、それからヨーロッパを転々とし、最後にオーストラリアに落ち着いた元脚本家である。

この本の帯にはこうある。「アングロサクソンはセコく、日本人は甘い」。

私はさんざん「日本人はとんでもないバカだ」「自ら奴隷に貶めている」というようなことを好んで書いてきたが氏もこれと似たようなことを記述している。だからこそ氏は日本で暮らすことを拒絶した。

では白人が賢いのか。これは事実である、と氏は言う。これはもともと白人が常に争いながら生きてきたからだという。

日本の自然に恵まれた環境では、ただおいしいものを食べていれば幸福だった。「幸」という言葉のもとは、釣竿の針仕掛けや、矢を示した。この語源からしても、うまいものを食べていれば、それで満足、という国だったのであるし、庶民のレベルでも、肥沃な大地から作物が採れ、山や森からは木の実や小動物を得ることができた。食うに困らぬ安逸の生活である。

白人(アングロサクソン)はこうではなかった。白人のメンタリティはキリスト教と共鳴するようできているが、キリスト教は砂漠の民の宗教である。砂漠では、作物はおろか、水を得ることも難しい。少数の食物しかないところに、争いが生じる。それは経済的な争いだったり、騙しあいであったり、果ては殺し合いにまで発展した。そういう世の中だったから、是が非でも「神の救済」が必要だったのである。

氏はロックの発言を引用している。
ジョン・ロックは、ギリシャの照りつける太陽と、岩なのか土なのかわからないような禿山を眺め、「ギリシャ文化は、この山ばかりの不毛な土地に育ったもので、知識に頼るしかなかったのだ」と、嘆息まじりに実感した。
西洋的な精神はキリスト教に還元でき、知は古代ギリシャに還元できるだろうが、その両者とも、砂漠のような厳しい環境から生まれたものである。

というわけだから、ノーテンキな日本人と、知性的な外人、という図式ができあがる。では、日本人はバカなのだろうか?グルメ番組だらけのテレビを眺める日本人は単なる痴愚なのだろうか?

そうではない、と氏はいう。その前提として、氏はintelligenceとintellectを区別している。どちらも知能とか、知性と訳せる言葉だが、intelligence=脳の能力faculty of brainと、intellect=心の力power of mindという風にわけている。これに従うと、犬コロはintelligenceはあるが、intellectは持っていない、ということになる(デカルト風に言えば)。

氏は、intelligenceで言えば日本人は劣るが、intellectでは決して劣らない、と語る。これは日本人の持つテレパシー的な意思疎通能力、「一から十を知る」ような右脳的領域のことである。日本人はintellectを発達させた。西洋人は、嫉妬や争い、窮乏の歴史の中で、intelligenceを発達させてきた。まあ「和魂洋才」という言葉のままである。

氏はこうした日本人的なintellectな価値観、いまでは異端でしかない価値観が、やがて世界に広がっていくと確信している。そうなのかもしれない。だいたい、これほど食物にあふれ、快適に暮らせる時代に、嫉妬や、争いは不要である。科学もこれ以上の発展は不要かもしれない。

小谷野敦が、ブログでこんなことを書いていたことを思い出す。
学問というのも、実は本来、終わらせることが目的のはずで、そして実際終りつつあるのだが、いつの間にか、終わらせるのが目的だということを忘れて、永遠に続くかのように錯覚してしまったのだ。つまり「うる星やつら ビューティフル・ドリーマー」であって、本来は三年で卒業する高校生活を、いつまでもしていたい、という夢と同じようなものを、学者たちは抱いているのである。(元記事
もちろん、西洋価値観がなだれ込んできているのが日本の現状である。たとえば愛国を自負するネトウヨは嫉妬と憎悪に満ちているという点で非日本人的な存在である。

現在は政府主導で日本の米国化が目指されている。これは格差と貧困の国家であり、ゆえに嫉妬と憎悪のエネルギーに満ちた国だということである。米国の傀儡政権である自民党が急いでいるのは、日本人のintellectの死なのだろう。

まあ長くなったが、この国を見直すきっかけを得た。日本人は痴愚だ、ということがわかっても、日本は本当に「ダメな国」なのか?という疑問がぬぐえなかった。西洋的先進国の基準からは到底日本は一流国と呼べないのだが、このような統治は他国と比べてより間違っているのか、劣っているのか、ということである。この本によれば、日本人はマインドの点ではずっと優れているといえるのかもしれない(ゆえに、憎悪と嫉妬の前には無力なのである)。

ルソーの「人間不平等起源論」に描かれた「自然人」と、(西洋思想以前の)日本人は、よく似通うように感じる。つまり、差異の不在である。恋人なんて概念はなく、自分の子どもがだれか、ということも気にならなかった。お上ではお家騒動なんてあっただろうけど、大部分の人間は、だれがどうとか、どうでもよかったのである。

この「どうでもいい」というメンタリティ、「うまいものが食えればそれでいい」というメンタリティは、意外と国際的価値があるものかもしれない、と感じるのである。それは嫉妬を原動力とし、知性を武器に戦ってきた西洋的価値観とはまったく逆のものだからである。

1 件のコメント:

  1.  知性とは何か?学問とは何か?霊感とは何か?そういう根元的な問い掛けはすなわち、人間とはどういう存在であるか、世界はどういう在り方なのかという解へと繋がるような気がします。人間が到達しうる認識の限界は我々を取り巻く様々な領域に対してあまりに狭く浅いものであり、学問の終焉というより、人間の終焉といった方がより適切なのではないかと思います。人間が到達できない領域への橋渡しとして、日本に存在する「どうでもいい」というマインドがそれを担うのではないかと感じます。

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