8.21.2015

Noise

よく眠ってしまえばとくに悩むこともなく、足取り確かに歩むことができる。

本を読もうと思えば不眠を選ばなければならないし、よい睡眠を選ぼうとすれば読書が犠牲になる。仕事の時間があまりにも長く、あまりにも体力を奪うから、私はこの両者のどちらかを選択しなければならない。

一生においてもっとも本を読むのに適した年齢にあって読書に没頭できないことは悲しいことである。とは言っても、大学生のときでさえ本はろくに読まなかった。三日で一冊くらい?ほとんど享楽的に読んでいるだけだった。

時間さえあればこんなことができる、と思っていても、実際に時間が与えられると何もできないものだ。怠惰はあらゆる情熱に勝利する、と……。それにしても、17時に仕事が終わればよいのに、と思う。そうすれば帰りがけに図書館へ行って、20時まで読書ができる。

今読んでいるのはプラトンの「饗宴」だが、このような薄い本を読むのにも、何週間もかかってしまう。もっとも、つい他の本を読んでしまうという事情もある。

「実際の世の中の人々」、かつて大学でともに勉学に励んだような人びとは、社会という舞台において、それなりの活躍をしているのだろう、と思う。大学を卒業して、フリーランスとしてマスコミの世界に飛び込んだ友人は、ようやく番組制作の仕事をいくつか任されるようになった。

他の人々も、会社のような組織のなかで、それぞれの情熱を持ち、厄介な人間関係や仕事に精一杯取り組んでいることだろうと思う。それはそれで、美しいことだと思う、彼らの生き方をなんら否定すべきではない。

ただ私は「世の中の人々」ではなかった、私は外側の人間だった。「私は外側の人間だった」という事実に、やっと気づくまでに、20年もかかってしまった。ただ、おそらく外側に脱出できた人間なんていないから、私は境界人なのだろうと思う。

どんな場所だろうと、人間集団だろうと、私は排斥されてきた。私は長くそのことに悩んだが、今ではそれを当然として受け止めることができる。私は都市のなかで華やかに生きる、ということを理想と思えない。反対にぞっとしてしまう。視界にだれも映らないような、聴覚を自然の音以外で汚されないような、静かな自然の環境のなかで、読書をするような生活に憧れる。

私が境界人である証明。聴覚過敏であること。「社会的な音」をノイズとして受け止めてしまうこと。普通の人は、自動車のエンジン音や、子どもの叫び声を我慢できる。それは社会的な音だからだ。私は、そのような音に我慢ができずに、耳栓をいつも携帯している。寝るときも、イヤーマフをつけている(寝返りが打ちにくい)。

神経症の病理は、こういうプロセスの欠如と言えるだろう。必要な情報処理が行われないこと。ノイズがノイズのまま、認識として飛び込んでくること。

ともあれわかっていることは、こういう性質は一生涯変えようがないということである。神経症者は治療不可能だから、神経症者として生きていくしかない。

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