8.22.2015

いつわりの

激することもなく退廃的に生きている。しぼんだ風船みたいに日常は味気ないものだ。

生活のなかで不快に感じることは多い。それが私を権力や富に向かわせる。例えば、傲慢な知的エリートを見たとき。不感症の感動屋を見たとき。凡愚、凡愚、凡愚。ピラミッドの頂点に近づけば、と思う。そうすれば、高級な人間たちと、高級な生活を送れるのかもしれない。

私は能力がないから、才能に欠けるから、こうして、三角形の底辺で生きている。私の両手には何もない。職はあり、金はあるけど、それでどうすればよいのか。500円のTシャツを着て、500円のサンダルを履き、図書館で、これを打っている。

人の上に人が立ち、その人の上にまた人が立つ。この連鎖で、人は神になろうと試みるが、結局のところ、神にはなれない。神にはなれないし、真理にも到達できない。つまり、どんな人間でも死ぬのだから、神にはなれないのだし、人間の認識には限界があるから、真理にも到達不可能だ。

知の可能性。ソローは、われわれが到達できる最高知とは、いわゆる「知識」ではなく、「知性への共感」であるとした。知識を積み上げて、積み上げて、その上に新しい知識を積み上げる。その山をよじ登れば、真理に到達できると人は思うかもしれないが、これも不可能だ。最後にはガラガラと崩れてしまうだろう。

考えてみれば、どんな人間でも「脳」で考えているわけだ。理性的に考えること、これは脳のはたらきである。そうして、脳とは何であるか考えてみれば、これは人間という種が繁栄するための道具ということになる。ネズミにも脳はあるし、ゴリラやくじらにもあるわけだが、しかし、我々の脳だけ特別に真理に到達できる、と、傲慢にも、そんな風に考えることができるだろうか(キリスト者は思うかもしれない)。

ともあれ私は古代ギリシャの人々が考えたように、知ることを善しとして生きていくことを決めたのだから、これは続けていきたいと思う。

社会人になって感じたことがあるとすれば、人間は適当に生きていても、割合なんとかなるということだ。生きることは簡単なのだ。私はいろいろな知識を身につけるたびにそう感じる。生は苦悩に満ちている、それもまた事実だ。しかし、本当の苦悩は、社会の押し付けてくる重圧にあるのではない。生の根源的な苦しみは、絶えず人を悩ませるが、しかし、社会的な「空気」あるいは「掟」は、大部分が迷妄であることが多い。

人は、雑事に知性を働かせることをせずに、もっと根本的な問題に取り掛からなくてはならない。文明が進展するにつれて、偽物ばかりが増えた。偽のビール、偽のバター、偽のソーセージ。偽の木材、偽の革、偽のレンガ。偽の音楽、偽の芸術、偽の小説。まだまだ、偽の宗教、偽の人間関係、偽の美、偽の労働……。偽物ばかりに取り囲まれて、人はついに己が人生までも偽物に作り替えてしまうようになる。

人は、思っている以上に自分の意思で動けているわけではない。環境と、遺伝子がほとんどすべてのようにも感じるときがある。ある人間が私に向かって怒り声をあげるとき、私は「この人を操っているのは何だろう?」と考えている。

私もまた環境と遺伝子の組み合わせでしかない。いったい、どこまでが自分の意志なのか、と考えるときがある。カルヴァン派のような運命論に陥ることもある。我々は自由でありうるのか?運命に対して主体性を持つことができるのか。

自由はあくまである、とするのが西洋=社会だ。自由はない、と考えるのが東洋=世間だ。我々日本人には、自由は存在しない。だから、同時に責任もないのだ。つまらない生禅めいたことを書いた、今日はここまで。

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