8.23.2015

孤独と知性について

知識の上に知識が立って、そのような連鎖によって真実に到達しようとしても、それはいつか崩れ去ってしまうもの、風雨には耐えられないものでしかない。

ただ、それでも知性的なものに触れると、やはり嬉しく感じてしまう。知性というと、インテリぶった表現になってしまうが、そういった傲慢さと知性は本来無縁である。というのは、知識人や専門家のセンセーは偉そうにしているが、彼らは知識があるだけで、知性はないからである。知性とは、究極的には美や善と相通じるものである。傲り高ぶる人間というのは善というよりは悪であるから、彼らには知性が欠如している。

そういうわけだから、私が信用しているのは、インテリではない。ただの二種類である。それは、弛緩した幸福人と、苦悩する賢人とである。その二種類だけが、本当の人間という気がする。苦悩する幸福人とは矛盾だし、弛緩した賢人というのも同様だ。しかし、このうちの後者は大変多いように思う。

人生というものは結局のところ苦痛でしかないのだから、知識を身に着けるたびに、人はそれを受け入れていかなければならない。

私は、精神医学とか、哲学を勉強した。勉強したというか、本を読んだだけだけど。精神医学を勉強したのは、神経症の解決法を見つけるためである。これは、ついに見つからなかった。私は一生この病気と付き合っていくしかないのだ、と悟った。つぎに生じた疑問は、この神経症はそもそも治すべきものなのかということだった。この答えは精神医学の範疇を越えていたから、哲学の勉強をした。哲サラさん風に言えば、「私が在ることの奇跡」の探求である。しかし、奇跡の探求など学問でどうにかなるものではない。次に宗教を少し勉強した。キリスト教の精神、インド哲学の精神。今は、西洋と東洋の比較を主に勉強している。これは社会学ということになる。しかし、社会学ってのは実にあやふやな学問だ。

こうして、私は苦しみをひとつの種として、知識へと枝を伸ばしていったのである。このエピソードを考えてみると、私は人よりも「生きづらい」から知識をつけていったということがわかる。木々は光が当たらなければ、光に向かって枝葉を伸ばすものである。私はもしも自分が「健常な精神」を持っていて、「生きやすい」状況にあったら、田舎のしょうもない循環における、ひとりの小作農で終わっていただろうと思う。そのようなことは、容易に想像できることである。

そうだから、上に述べたように、賢人とはまず苦しんでいなければならないと思う。苦しむとは、どういうことか。まあ端的に言えば、孤独であること。アウトサイダー、あるいは境界人であること。「人と違う」ということ。いつか賢人が知識人になってしまうときがある。満足してしまうのである。苦痛をもはや感じなくなるのだ。私もそうなるかもしれない。まあ、それは、それまでなのでしょう。

孤独が人を知に向けさせる。哲学者や、賢人は、たいてい不幸な孤独者だった。というと、カントは社交的だったじゃないか、彼は談話好きだった、という人がよくいる。しかし、カントは絶対に本業である哲学の話はしなかった。それだけで、私は彼が十分に孤独だったと思う。自分の仕事のことを、他人に打ち明けない人とは孤独なのではないか。

天才だから孤独なのか、孤独だから天才なのか。私の例をとってみると(私は天才ではないが(あるいはそうかもしれないが))、生まれてから20年、知性とは無縁だったと思う(孤独ではあった)。21歳のときだったと思うが、マズローの本を読んでいて、その中のある瞬間に、雷鳴のような感動を覚えたのである。それから私は、知性に生きようという気になったのだ。怠惰から知性へ向けさせる、あの転換がなければ、と思うとぞっとする。しかし、その瞬間はいずれ必ず訪れただろう。というのも、私は苦しんでいたのだし、マズローだろうがニーチェだろうが、きっかけさえあれば何でもよかったのだ。

こう考えてみると、孤独であるべき人は生来そう運命づけられているのであり、それと同様に、知性もまた生来のものだと言えるのだろう。結局のところ、「感受性が高い」のだと思う。とは、神経過敏なのだ。神経過敏の良い点は、知性や美に対して鋭敏であることである。神経過敏の悪い点は、何事にも我慢できず、苦痛を感じ、そして孤独であることである。知性とは孤独である。孤独のない知性は、すべて偽物だから、これを判断材料にするといろいろなことに惑わされなくなる。

思想の表明が明示的にせよ暗黙裡にせよ「われわれ」という小さな語に先行された瞬間、知性はすでに敗れ去っている。(シモーヌ・ヴェイユ)

1 件のコメント:

  1. そうしたら「知恵」とは何だろう?日本語は難しいのだ。フローレン

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