8.25.2015

投資について

苦悩、賢者 ⇔ 幸福、愚者

不幸な人々が増えていけば、人びとの知性を増強していくことになる。そして知性とは、自由への道筋であるのだから、人びとは隷属状態から解放されることになる。

支配者があるとすれば、そのような事態は回避したいのだから、ふたつの方法を考える。ひとつは、知性を封じることだ。アレクサンドリア図書館の破壊。知への道筋を封じる。もうひとつは、人々を幸福にさせる。知性への欲求を封じる。

人びとを幸福にさせるには、ふたつの方法がある。実質的なバラまきによって、豊かに暮らせるようにする。もうひとつ、豊かだと「思い込ませる」。当然ながら、後者の方がずっと楽だ。

そういうわけなので、この国では大衆はつねに自分が「恵まれている」と思っているのである。しかし、実際は生活は貧しくなっているのだから、ある臨界点を超えれば人々は、知性に目覚めることになる。


日本の株価が暴落しているが、そもそもが高すぎたのである。景気がいい話と言えば、円安になって輸出産業が豊かになったという話だけで、なんら魅力的な新商品が開発されたわけではない。市場は相変わらず、軽自動車やスマホゲームのような、国際競争力のない、国内の貧困層向けビジネスが賑わっているだけだった。あとは、中国人の「爆買い」。

この下げは止まらないだろう、と私は思っている。株なんて買ったこともないが、私は日本の株式市場は魅力的に思えない。中国市場の勢いが止まれば、日本市場もそれまでだろう。


投資を否定すべきか。

考えてみれば私の人生も投資の結果成り立っている。例えば、受験。受験のときは、「あとあと楽になれるように」とそのとき努力していたのである。そのおかげで私はある程度の知的財産と、わずかな人的財産と、現在の収入を得ることができている。

私は高卒で地元に残り働いていたら、と思うとぞっとする。

投資というと大仰だが、「あとあと楽になれるように現在行動する」ということだから、それは土を耕し種を植えるような楽しみであり、冬のために肉を塩漬けにするような自然な営為ではないのか。それは人間という動物の持つ「想像力」という能力の発露なのではないか。

何かを買うときも、それは投資の性格を持つ。私は15万円の家具の購入を検討しているが、それは少なくとも、ヤフオクにでも売れば10万円程度で売れるだろうことを予測している。

また、現在のバイクを購入するときには、7万円で購入したのだが、中古市場相場は10万円以上だった。これは一種の投資と言ってもいいかもしれない。今は海沿いの町に住んでいるので、サビだらけだから10万円では売れないだろうが……。

消費と投資は違うのだろう。ティッシュを買うのと、家具やバイクを買うのとでは、性格を異にするということ。

金に向かったり、性愛に向かったり、あるいは知性に向かって人々は投資するものなのかもしれない。本を読むときも、そのときの愉しみというよりは、その後の蓄えになる、という要素があるのだから。まあ、ある程度投資というものに手を出してもいいと思っている。今の株には手を出す気になれないが……。


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