8.28.2015

「和」の統治

財産が欲しいと思いつつ、財産を所有することは面倒だと思う。だいたい金に人生の時間を奪われたくないし、あの世に金は持っていけないのだし。

とは言っても、現実の私は金のために人生を費やしている。明日の食い扶持のために今日働いている、というわけだ。私に十分な金があれば、今のように一日9時間近くを仕事に費やすようなことはしないだろう。そのようなことは実際、バカバカしいことだ。

私は労働は人間の本能だと思っている。汗水流して働くこと、社会参画と言ってもいいが、人はそのような働きを志向するよう運命づけられていると思っている。そうだから、労働から阻害されることもまた悲劇である。

だから、仕事とのちょうどいい距離感があればいいのだ。カフカのように、午前中だけで仕事が終わるとか。そういう仕事であれば、午後をまるまる創作に使うような生活も可能だろうと思う。

日本人は「和」の精神をもっているが、これが法を逸脱させる。「和」の精神がサービス残業を当然とさせる。ひとは、法より和を優先させるが、これは当然のことだ。我々の国家を維持するのはこの「和」なのだ。

西洋は社会と個人は契約で結び付けられている。が、日本人はつねに和の中にある。個人が融解しており、集団的精神のなかに組み込まれている。「一匹の虹鱒は、個体としての虹鱒であることはない。常に集団の中の虹鱒なのだ。」というようなことをだれかが言っていた。

しかし西洋人とてまるで個人として独立自由であるかというとそういうわけではない。

そういう幻想はたしかにあったがフーコーの新しい権力像によって打ち破られたわけだ。フーコーによれば、権力とは自由を奪うものである。そうして、同時に「自由」に振る舞うことをうながすのだ。我々が自由であると思うとき、それは権力の不在を意味するのではないのである。かえって、権力がよりよく働いているといえるのである。

そういうわけだから、「完全な自由」とは西洋理想主義的な幻想でしかなかった。かえって日本人の方がリアリストと言えるだろう。つまり我々は、人間の関係は契約や法律だけでうまくいかないことを知っているのだ。

西洋人の自由思想の根底にはJ.S ミルがあるが、ミルの言い分は「法律を破らなければなにをしても自由だ」というものである。そんなことは日本では適応不可能である。

日本人は、法律を破ることに対し何の抵抗もない。制限速度を平然と破る。巡回中の警察車両でも速度オーバーで走る。企業は平然と談合し、カルテルを作る。

そういうわけだから、法律を破らない個人に対して私刑を行うことも日常化している。その一端が、クラスにおける「いじめ」の発生であり、パワハラ・アカハラ・セクハラなのであり、「村八分」なのである。

時事ネタはあまり書きたくないが、今話題の武藤議員は日本人の精神をよく表している。彼によれば
日本国憲法の「国民主権・基本的人権の尊重・平和主義」という三大原理が「日本的精神」を破壊し、現在の日本の「精神的荒廃」をもたらした(引用元
ということだ。私は、彼は彼なりの適切な主張をしていると思う。現実をきちんと見据えている。つまり、「和」の社会と「法」の社会は相容れないのである、市民が基本的人権を主張したら「和」の社会はことごとく潰れてしまう。そうして「和」が崩壊するときには、国体(国の精神)も崩壊するのである。

だから日本は「本音」と「建て前」をうまく使い、表向きは近代国家の様相を示すことに成功している。つまり、建て前では基本的人権が保証されているが、本音ではそうではないという意味で。

日本人に人権はない、これは当然の事実だが大事なことで強調しておこうと思う。

日本人が個人としての権利に目覚めたときに、日本人の精神性はなくなるということだ。結局のところ、日本社会で生じている問題の数々は、西洋個人主義と、東洋集団主義との間の矛盾に帰結することができる、気がする。




1 件のコメント:

  1.  黒崎さんの「日本人のほうが現実をきちんと見据えている」という考え方に私も共感します。平等で民主的で完全に自由な社会というのは、誰しもが自由や権利や名誉や安全を努力しなくても得られる社会と言えるでしょう。しかし、現実には様々な制限や理不尽な運命等はあるわけで、その理不尽さはやはり不当なものだとして、法律や教育や科学においてそれを無くすことに努めてきたわけです。しかし、人間は生物として食欲や性欲や睡眠欲などをはじめとする「欲望」というものを切り離すことはできません。では、誰がその理不尽を受け止めるのかという話になるわけです。

    返信削除