8.03.2015

飢餓のヘゲモニー

日常は、考えていたよりも私を締め出さなかった。

仕事が一段落ついた。日常は大部分がルーティンだが、こういう「期日」というものがあると、生活にメリハリがつくようだ。

人は、苦しむときにも、その苦しみから解放されたときにも美しい。苦しみという基準がなければ、人間は生きているのかわからない。我々の人生は、いかに苦しんだか、いかに苦しまなかったか、ということに尽きる。嫌な仕事はあるものだ。嫌な人間もいる。「とかくこの世は生きにくい」。

明日は今日よりよくなるという思いが私の脳みそを弛緩させる。毎月給与があるということ、それで蓄えが増えていくという事実が、人間の幸福を効率よく呼び起こしてくれる。そうでなければ、月給制がどうして世界を埋め尽くしただろう。

人間は金持ちになると傲慢になる。金持ちの大半は、自分の能力や才能で金持ちになったと信じている。しかし実際は、東大卒である彼は、自分の力というよりは、親の力で東大に入れたのだ。受験勉強とは、このような傲慢さを身に着けるプロセスである。試験のとき、彼はたしかに独力で問題に向かっているが、しかしその一方で受験票すら得られず、予備校にも行けない人間がいるなど思いも及ばない。

高級車は横断歩道で止まらない。おんぼろの車ほどよく止まるのだという。もちろんこれは外国の話で、日本だと高級車だろうと、おんぼろの軽だろうと止まらない。

日本人を考えると不思議な生き物だと思う。昨日述べた林秀彦は結局のところ縄文時代の日本人を賛美しているようだった。つまり砂漠の民と森林の民というわけだ。日本人は甘い、実際それはそうなのかもしれない。何しろ食べ物があるのだから戦う理由もない。縄文時代の土器からは人殺しの道具が見つかっていない。これは驚くべきことなのだという。

一方砂漠の民は信じられないくらい貧しい土壌を競って戦争ばかりしてきた。こうして彼らは理論とか科学とか西洋的な価値観を手に入れてきたわけだ。そうだから彼らは「強い」のである、それは戦ってきたから、「賢い」のである、それは議論(論争)してきたからだ。つまり彼らの根本には飢餓があるのである。

日本人には飢餓がない。砂漠の民は飢えている。おそらくこの違いはDNAレベルで刻み込まれているのだろう。そうだから日本人は徹底的に甘いのである。どうせ放逐されても食うに困らないからである。だから何をされても阿呆面をしているのである。

考えてみれば土壌が豊かな土地ほど文化的発展は遅いようだ。東南アジアは少し前まで発展途上国扱いだった。イギリスに永く支配されたマレーシアやシンガポールは今や日本以上の先進国である(と思う)。しかしそれでよいのかとも思う。それは結局西洋化に成功している事実以上ではないからだ。

先進国になることと西洋的であることは同じだ。民主主義や三権分立は西洋のシステムだ。これを日本に持ち込んでもしょうがない。この国は建前上はそれらシステムを輸入した。それは「必要」からだ。だが、実際にはそれらは機能不全を起こしているし、だれもがそれでもいいと考えている。

私は日本という国を再評価してやってもいいのではないかと思う。この国は二流国である、なぜならば法治国家ではない。横断歩道でだれも止まらないし、歩行者はそれを当然だと思い、運転手もまた然り。しかし、これほど西洋的なマインドが精神に根付かなかった国はないのではないか。独自の発展を遂げたガラパゴス国家なのだ。

韓国を見てみると、自国の文化を捨て去って欧化することが富裕層あるいは知識層の常識となっている。つまり18歳になると米国の名の知れた大学に入り、そこで母国の風習や習慣を捨て去るのである。日本ではこのような習慣は一般的ではないと思う。東大に入っても、そこまでエリート意識をもつわけでもなく、日本の大学生特有のモラトリアムに溶け込み、日本企業特有の「就活」に打ち込む。

私から見ても、この国はよくわからない。ウォルフレンのような日本研究者でも、この国の動きはまるで掴めなかった。ウォルフレンは、しょうがないので、だいたいアメリカの意向通り動いているんだろう、と予想した。しかし、それも「建て前」なのかもしれない。かといって、この「建て前」をめくったところで真相が出てくるとは限らない。それは別の建て前なのかもしれない。この国の動きは、たまねぎの皮のようだ。

東洋の論理は、論理の不在である。だから、西洋人にはまるで理解できないのだと思う。彼らは論理以前の思考など、ないのだから。論理的に、神秘主義に行き着くことはあるが、それ以上踏み込むことはできないのである。

独特に統治された国だ。uniqueだと思う。世界にひとつくらいは、こういう国があってもいいと思う。だれもが民主主義や法治国家のようなプラトニックな理想に教化される必要はない。西洋はもとより、中国も、韓国も、飢餓の病に落ちている。中国のバブル経済は、国力をつけた中国を骨抜きにするだろう。人間が経済的な享楽にひたると、どれほどバカになるかはぼくらの上の世代を見ればわかる。

日本人は、日本人として、アホであればよいのである。それが悪いとは思わない。AKBを聞いて、アニメを見て、パチンコを打って、たまには途方もない努力をして、くだらないビジネス書でも読んで感動すればいい。

政治のことを考えてはいけないし、自分の境遇が不幸なのだと考えてはいけない。絶対に読んではいけないのは、学問書であったり、哲学書、古典作品の類である。人生に疑問をもってはならない。甘やかし、甘やかされる、そういう関係をぜひ維持してほしい。それが国体としての日本なのだ。西洋人からすればぞっとするほど幼児的でimmatureだが、immatureであることを誇ればいい。

そう考えてみると、日本のマスコミとか、自動車会社、官僚のような「支配層」が、案外日本のことを真剣に考え、愛しているのではないかとすら思う。

ともあれ今の与党は、国民を飢えさせようと躍起だ。もちろん名目は日本経済の復活だが、その実態はインフレと賃金低下である。庶民が飢えようとしているのだ、この豊かな国にあって。どのような意図であれ、これは悪を蔓延させる有効な手段である。

西洋的なマインドは、根底に飢えがある。飢えが嫉妬を生んだ。嫉妬が差異を作りだした。差異が理論を生んだ。理論が科学を生んだ。しかし、飢えさえなければ、理論も科学も不要なのだ。そういう時代になった。

日本的なマインドを、広げるべきだろう。21世紀、我々は子どもに還るのである。子どもとは、自然人である。食べて、セックスして、何の悩みもなく、生きるのである。

これはディストピアなのか?ユートピアなのか?それはわからない。科学を放棄した我々は、もう神に支配されることはなくなるし、死というものもやがて考えなくなるだろう。それでいいのかもしれない。我々には、もともと死の苦痛なんていらないのかもしれない。動物は、仲間の死を見つめても、そこまで考えるわけではない。ああ、長いこと眠っているな、と思うだけだ。しかし論理がわれわれをこう思わせる。「どうやら、人間はだれもが死ぬらしい。ということは、私も死ぬに違いない」と。この論理的帰結が人間を何千年も苦しめる。しかし、私の死と、他者の死は違うのだ。論理と科学を放棄すれば、他者の死は、自分の死となんの関わりもなくなるだろう。他者の死は単なる現象になるだろう。そうすれば、自分の死は生において「不在」になる。

The Inferno, Canto 21 - Gustave Dore


神や天使は飢えない。飢えているのは、常に悪魔だ。



こうして日本ageをしてみたが、相変わらず住みづらい国であることに違いはない。アングロサクソンと共同生活する機会を得てみたいものだと思う。

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