8.06.2015

労働に向かない人間の雑記

なぜこんなにもがんばらなければならないのだろう、と思う。

自分の仕事に誇りはあまりない。しないでいいなら、しないで済ませたいし、もし三億円が手に入ったら、今の仕事は午前だけしかしないだろう。それくらいの関係でしかない。

私は、今、金が必要だから、働いている。別に、やりがいとか、楽しみは求めていない。仕事にやりがいは感じていない。仕事はしたくてするものではない、と思っている。責任感も、あまり、ない。

日本人は、クソまじめすぎる。笑いがない。仕事に対する距離感がない。どうせ、大したことのない仕事なのだが、そのことがわからない。仕事が、ひとびとの生活を飲み込んでしまった。仕事は生活の一部ではなくなった。主従関係が逆転した。今では、仕事の中に生活があるようになった。この事実が日本人の精神を規定する(サービス残業、過労死、家庭崩壊)。

仕事は、(公務員でなければ)単なる、金儲けである。あらゆる企業が、金儲けを企んで躍起になっている。こういう世界において、私も一労働者として、経営者の金儲けに与するために、一日の大半を犠牲にしている。それだけの事実なのに、ひとびとは、経営者のパシリになることに喜びを感じ、明日にはもっと良いパシリになれるよう、願をかけて眠りにつくのである。

こうした社会において、私は、金に価値を見つけられない人間だった。私は、世の中の贅沢に興味をもたない(もてない)、朴訥な田舎人であった。私は中古の軽自動車のボロさとか、中古で買った200ccのバイクに、どうしようもない愛情を感じる類の人間だった。

金を持てばそれが変わるかと思った。私は、金の力に溺れるつもりだった。それが、今でもスーパーで半額の惣菜を買い、職場に弁当を持っていき、気候がよければ自転車で通勤する、貧乏人の精神を維持していた。

私は、芸術家の素質を持っていると自分に確信を持っていた。しかし、それも間違いだと気づいた。世の中の芸術品は、類まれな努力の結晶であることを知った。そして、私は努力のできない人間であった。私は本質的に、世の中のあらゆることに関心が持てなかった。私が興味あることは、なにかに働きかけることではない。なにかから離れることなのだ。

私は26年生きてきて、ただ不幸なだけの人生を味わってきた。私はあらゆる社会的環境で不適合だった。だから、できうるかぎり、人から離れることを目標としてきた。人間のあらゆることが我慢ならなかった。他者があるときに、私は不幸になった。しかし、それは実際のところ、自己に対する失望があるからである。

私は揺れ動く、自分があまりにも正しいから、他者が間違っているのか?それとも、他者が正しくて、私ひとりが痴愚なのだろうか?と。

宗教は私を救ってくれる。私のような人間のために、宗教があるという気がする。キリスト教は好きだ。私は、辛いことがあると、「神は私の味方」とノートに殴りつけた。そうすると、救われた気がするから不思議だ。

神は私の味方、神は私の味方……。

やりきれない日常で満ちている。このような雑多な出来事の連続に、脳味噌を支配されたくないと思う。私の人生目標は、食うに困らず、時間に追われず、あらゆる執着を離れ、ただ本を読むという生活である。こういう人間に、金や、権力の誘惑がなんだろう?

もちろん、美しい音楽と、澄んだ味のコーヒーと、脳味噌をかき回すような、アルコール飲料は、欠かせない。

コーヒーとアルコールのサイクル、これで十分、日常は完成するのだ。安上がりな人間だ、と思う。私には何もないが、私にはすべてがあるのである。

0 件のコメント:

コメントを投稿