8.31.2015

Nervosität

私の現実認識がまるで間違っているという気がしなくもない。――黒崎潮は、現実知覚がゆがめられてるから、相対的にだけでなく絶対的に無能のものとして考えるのが一番よい。

現実認識は、多かれ少なかれ人それぞれで違っている。私は都市の雑踏にどうしようもなく圧倒されてしまう。かえってその雑踏が、お祭り騒ぎのようで好きだという人がいる。私は騒音の中に悪を見つけだす。彼は騒音の中に快を見出す。同じノイズでも、人によって見方は違う。



私による世界は、神経症者の世界だ。彼の見る世界は、健常な世界だ。私の世界は健常な世界から排斥されている。接点がないのかもしれない。共通項的な世界がある。常識、それがイデオロギーの覇者である。幸福を求めればバカでなければならず、真理を求めれば狂人でなければならない――世ニシタガヘバ望ミアルニ似タリ。俗ニ背ケバ狂人ノ如シ。

私が神経症者であることが、私を規定する。私はそれ以外であるのか。私は、この人生を神経症者として過ごすことが運命づけられている。私は、健常な道を歩んではならない。

私はそもそもが孤独を好む性質ではないことを自分で知っている。
神経質の厭人症で、人を避け、独居を好むとかいうことも、みな続発性、すなわち二次的に自己の病に対する影響を恐れ、そのために病がますます憎悪するのではないかという杞憂の結果として起こるものである。
と、森田先生。

孤独を好む人などいない。隠遁生活をしているものが、かえって人を愛していることもありうる。ただ、彼は身を隠さなければならないのだ。鬼だから。
ほかのみんなと同じように、僕もまた、家族や友情、愛情や親交の必要を感じている。僕とて消火栓や街灯のように、石や鉄でできているわけではないのだ。
と、ゴッホ(鬼)。人間の姿をして、人間でないものがある。



輪の中にいる人。辺縁に追いやられた人。問題は、そのどちらが人間なのか、ということだ。



2 件のコメント:

  1.  憎しみや恨みや不満を何かにぶつけたり、自分が正しい方にいることは気分的に楽だ。しかし逆に自分が憎しみや恨みを買うことは、自分の苦しみが深いほど辛い。ゴッホは鬼だが、必死で愛や希望を与えようとし、結果として沢山の人を苦しめた。それを気狂いとか異常だといって笑うことは正常だろう。だが、だとすれば人生とは何なのだろうか?

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  2. 鬼も結構いるもんだよ。外に出るときは鬼の姿を隠しているから、すこぶる疲れます。
    健常な道を歩んではならないのではなく、歩めない(歩まない)のだと思う。
    金子みすゞが「私と小鳥と鈴と」で、みんなちがって、みんないい。って言ってるよ。フローレン

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