9.10.2015

補遺

精神としては正しいのに、表現がまずいために誤解を招く。

金を稼ぐということの意味は、二通りある。金から解放されるためか、金を目的とするかである。我々は日銭を稼ぐという拘束にどうしようもなく縛られている。その一方で、金自体の魅力に取りつかれることもあるわけだ。

余剰としての金銭と、欠乏としての金銭は違う。余剰としての金銭を求めることは、食うにたる以上の食糧を得て、必要以上の衣類を持ち、贅沢な住宅に住むことである。これが私の言う「経済的成功」である。

ただ、実際にはそういった「余剰」を求めることは、迷妄の結果に過ぎない。これらが迷妄に過ぎないというのは、人間は結局のところ死ぬ生き物からである。もし人間が永遠に生き続けるのだとすれば、富を目的とすることは正しいだろうが、死を前にしては、余剰的な富はほとんど無価値になる。どんな金持ちであっても死ぬし、また貧民であっても死ぬからである。

我々が必ず死ぬとすれば、経済力にそれほどの価値はない。死という大問題の前では霞んでしまうことなのである。

我々の知性は、死を直視することによって始まる。この死という問題を考えたときに、英雄になろうという人はいるだろう。軍隊を率いて栄誉を勝ち取ろうという人がいるだろう。あるいは、大会社の社長を目標とする人があるかもしれない。一方で、詩人になろうという人もまたある。彼は孤独に引きこもったり、あるいは身ひとつで放浪したり、酒や女に溺れることもある。しかし彼を引きつけるのはただ真理のみである。

私は詩人であろうと、英雄だろうと、どちらも人間の目標に足るものだと思う。その意味は、死を認識した瞬間に、つまり人間の有限性を自覚したときには、そのどちらかを選択することが自然だからである。もっとも、詩人として生まれたのに、英雄になろうとして不幸になる人がいる。そういうとき人は「歪められている」のである。

私が「経済的成功」に適性がある人間というのは、上の大企業の社長のような人間のことである。これは私の周りで、経済的成功をおさめている人々を見ればわかることである。しかし、彼らが求めていることは「栄誉」であって、余剰的な富ではないのである。そうして、詩人についても当然世間に受け入れられれば、経済的な成功をおさめるだろう。

しかしそれは目的としての富ではないのである。栄誉を得る手段としての富なのだ。ある人間が富を得て、その英雄的精神も、詩人的精神も退廃してしまうことはある。そうして彼が栄誉や真理から遠ざかることはままあることだ。そのとき、富の手段と目的が逆転しているのである。これがまあ乱暴に言えば資本主義的なイデオロギーである。

経済的富が彼らを人間の生=死から遠ざけることがある。これと同時に、経済的欠乏が人間を遠ざけることもある。今日食うために今日働く人間は、明日死を認識する時間を持たないだろう。

というわけだから、我々は経済的に独立することが重要なのである。我々は富を目標としてはならない。そうして、富の欠乏に縛られてもならないのである。私が今日も働かなければならないのはその事情による。

2 件のコメント:

  1.  山月記の李徴のように、臆病な自尊心と尊大な羞恥心を持ってしまうと、優秀で創造的な知性の持ち主であっても、その気持ちから現状に決して満足せず、結果として自らを虎へと変貌させてしまう。だから、適度な所で現実を受け止める心を持ちましょう。という教科書的な教えがありますが、現実的には何処に自分の置き所を見いだせば適度といえるのか。いつになれば経済的に独立したと思えるのか。というのは描かれていません。まだ情報の少ない時代なら、共同体の幻想としての適度な位置付けというものがあったと思いますが、現在の多様な個人の在り方からそれを見付けるのは容易ではないでしょう。

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    1. 人は空腹では飢餓に襲われ満腹であっても胃に不快を覚えるものです。私の目標としては中庸です。金から意識が離れることです。

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