9.11.2015

宗教と哲学

昨日は仕事中に何度も笑いだしてしまった……。醜悪なことを書いたものだ。人生とは、人間とは、生命とは、こういうものだと考えること。考えるならまだしも、それを一生懸命主張するということは、バカげたことだ。そんなことはわかりはしない。

いかに生きるべきか、を考えて、考えつづけて、しだいに時間がなくなり、死んでいくことは、喜劇であるけれども、しかし、世の中にはそういう人間も必要なのだろう。

だれもかれも、生の不思議には躓くけども、「大人」になるにつれて忘れていく。身内の死とか、啓蒙的なテレビ番組にでも出会って、あるいは健康診断の結果によって――たまに念頭に浮かぶくらいのものだろう。死という現実は、うまく包み隠されている。それは人間の環境適合の本能によって、あるいは社会的要請によって。

私は4歳児並の知性の持ち主だから、日常の仕事の悩みとかよりも、そういったことが重大ごとに見える。人間は死ぬ。なぜ死ぬのか?死ぬのであれば、生とは何か?いかに生きるべきか?

哲学とは考えてもわからない命題を、考えようとする試みである。だから、そこには個性が生じるのだ。錬金術は個性的だったが、原子の周期表が広まってからその個性は駆逐された。現代の哲学とは、錬金術レベルなのだろう(一見、ダーウィニズムが最有力のように思えるが、果たして?)。

人生とはなんぞや、という答えはまだ出ていない。だから「ニーチェはこう考えた」「プラトンはこう考えた」「フロイト/フーコー/マルクス/パスカル/ショーペンハウエル/...はこう考えた」ということが重要になる。歴史に残るあの大天才はこう考えた……ならば、そういうことかもしれない。そういうことだという蓋然性が高い。というレベルのものである。私の考えも実際ほとんどが、そういう大天才の受け売りである。
哲学の哲学たるゆえんは、論証的言説でも正当化の言説でもないということです。哲学を定義するモノは、哲学的戦場(カントのKampfplatz)におけるその立場(ギリシャ語ではテーシス)なのです――現に存在するなんらかの哲学に賛成するのか反対するのか、それとも新しい哲学的立場を主張するのか、が問われます。(「哲学について」アルチュセール)

そうだから宗教というものが今も生き続けるのだろう。人間の生と死の不思議は解決されない。しかし、それを解決する存在があるとするのが宗教である。というのも、ニーチェも、プラトンも、完全な答えを明示したわけではないからだ。人間を越えた、超越的存在者を作り出す。人間のもつ有限性・不可能性の対称としての存在。
かりに私たちが本性とか本質を持っているとしても、それを知り定義づけられるのは、明らかに神だけである。神がそれをよくなしうるのは、なによりもまず、神は"who"について、それがあたかも"what"であるかのように語ることができるからであろう。(「人間の条件」アレント)
しかし、神は存在するのか?人間が生みだしたのではないか?そーすると都合がいいから存在することにしたのではないか?と邪推してしまうのは四歳児の知性である。しかしまあ、神の存在は人間の認識を越えているのだから、神の第一発見者となって新聞記事に載ることは困難である。

哲学と宗教のありかたをこうして羅列してみたが、これらと芸術の関係を探りたいものである。私は、人間の生を構成するのに、宗教と哲学だけではやっていけないと思う。芸術が人間の精神とどうかかわるのか、宗教と哲学との関係はどうなのか、またどういった位置づけを担っているのか。



ひるがえって、日本社会というものを考えてみると、この国には躓きが欠けているのだと思う。その点が私は不満である。躓きが欠けているからこそ、「宗教」も「哲学」も「芸術」もこの国から損なわれているのだろう。事実、この国は民衆が躓かないよう周到に配慮がなされている。

がなり立てるスピーカー。「お足もとにお気を付けください。段差がございます」「ホームと車両の間が広くあいていることがございます……」。

こうした「配慮の行き届いた」国においては、ひとびとはAKBやEXILEを聴き、ポルノアニメを鑑賞し、ビジネス書の資本主義的な教義を受け入れるようである。これはこれで、ひとつの統治の完成形であると思う。

アルチュセールの論文では、イデオロギーは現実に大して個人個人が抱く「幻想的な関係」の表象とされています。しかしそれは、単に抽象的な規則として人びとにむりやり押しつけられると言うよりは、むしろ、教育や、宗教的儀式や、日常生活の行事などの生活全般に関する具体的な行為を通して、「なくてはならないもの」としてその心に植え付けられる。そして、繰り返される条件付けのなかで、人は常に「あなたはこの文化における<主体>の概念にふさわしい行動をしていますか?」と呼びかけられる。この呼びかけをアンテルペラシオンという。(Art in a New World /松井みどり)
「あなたはこの文化における<主体>の概念にふさわしい行動をしていますか?」

1 件のコメント:

  1.  教育においてもつまづかないことを前提とした道筋を示すことがほとんどだと思います。都市部では特にそうで、保育園から大学まで、常にリスクとその後の成長への投資を天秤にかけ、いい大学への橋渡しをし、そこからできるだけ安定した暮らし、給与、社会的地位などが得られる仕事を選ばせようとするわけです。ところが、これほどリスクが低くあるように設定された社会なのに、少子化が進み、虐待の認知件数は増え、クレーマーの対応に追われ、監視や管理に疲弊する社会になっているわけです。その理不尽なまでに潔癖でつまづきを病的に避ける社会においては、主体であることはほとんど難しいのではないだろうか。と思えます。

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