9.13.2015

東洋と西洋

うまいものを食べていると、精神的な欠乏がなくなってしまう。

昨日は、よい酒と、よいパンと、よいベーコンと、よい卵を買ってみた。もともと、昨日は外泊する予定だったのが、気分が変わったので日帰りにした。旅費が浮いたので、せっかくの土曜ということもあるし、おいしいものを食べようと思ったのだ。

山奥にあるパン屋の、都会から移住してきたというその主人の作ったフランスパンは、どっしりと重く、色も淡白であり、本物のパンといった風格である。これに、地産の卵と、お高いベーコンとを合わせて、酒は高くはないが好みの赤ワインと、ウィスキーを合わせた。フランスパンの半分は、ガーリックトーストにした。

これがうまかったので、今日は特に何も書く気がしないというわけだ。人間は、生活に満足してしまえば、そこから前進することができないということだろう。もっとも、どこに前進するか、その価値基準も明白ではないのであり、テレビや学校教育で繰り返される大衆的なイデオロギーもあれば、ニーチェは権力だとしたし、エピクロスは快楽、プラトン的にいえばイデアなのである。

情報統制が行き届いた、こうした世の中では、人びとの眼は曇らされてしまう――と危機感を持つことも必要だが、そもそも大衆はいつの時代でも欺かれていたのであるし、別段真実を求める必要も感じなかったはずである。彼らはある意味で十全しているのであるから、真実を必要としない。

古代ギリシャ的な価値観では、人間だれしも知や真実を追い求めなければならない、とある。というのも、彼らにとって知とは美であり、さらに善だからである。これに反して、インド哲学のギーターでは、人は生まれ持った適性があるのであり、戦士的人物は危険と名誉を求め、宗教家(詩人)的人物は真理と善を求め、市民的人物は幸福と実利を求めるようにできている、と説く。

この対比は、ギリシャ的な感覚の方が理想主義で、インド哲学は現実主義ということができるだろう。私もインド哲学の肩を持っていて、だれもかれもが真理到達を志向する必要はないと思うし、そんなことは不可能だと思う。

明らかに思想することが向いている人がいて、一方には勇敢に戦うことが向いている人がいる。この性質は生来のもので、変えることができない。この不平等が、現代インドのカースト的差別感情と結びついている。

一方で、西洋のキリスト教的価値観では、だれもが神の前では平等であるのだから、生まれ持った性質に拠らない価値観、つまり民主主義とか、自由経済的なイデオロギーが生まれた。

この違いは、大きく括れば、東洋的精神と西洋的精神ということができるのだと思う。それで、今は西洋的精神が優勢だけれども、私は今後も、東洋的精神は生き続けるだろうと感じる。それはつねに世の中には理想と現実があって、その両者がひとつになることは永遠にありえないからである。インドから差別がなくなろうと、日本が法治国家になろうと、完全に行き着いてしまうことはないだろう。

ニーチェはアポロン(秩序)とディオニュソス(陶酔)を対置させたけれども、これはそのまま西洋と東洋の対置と言えるのかもしれない。ディオニュソスは東洋(トラキア)から来た神というのは有名だが、なかにはシヴァ=ディオニュソス説を唱える人がいる。これはほとんどオカルトの領域だが。

われわれは栄えある王国に生まれた。しかし、われわれはこの王国の境界がわれわれの知識の限界であるとは、そして東洋の光がわれわれを照らす唯一の光であるとは、考えなかった。(「ペルシャ人への手紙」モンテスキュー)

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