9.14.2015

めくら

理想のようなものを追っていた過去の自分が、悪夢を見ていただけのような気が、今日はしている。私は結局、一個の人間であって、著名人のように偶像になることはないし、ある地点に満足してしまうことも、今後ありえないのだろう。

著名人になることを望む人がいるが、私はそれを望まない。いや、内心は望んでいるのかもしれない。私のこのブログは、ある程度コメントがつくようになって、少しの承認欲求を享受している。このことで、多少の満足を感じるけれども、果たして、名声の欲に限度があるのだろうか。

金については、中庸がわかる気がする。名声はちょうどいいという点があるのか。田舎の町医者として尊敬されればいいという人がいるし、アメリカやドイツの大学へ行って、教授になることを望んでいる医者がいる。

人間は、幸福を望むけれども、では幸福とは何なのか。名声という人がいるし、金という人がいれば、家族という人がいて、快楽だ、真理だ、という人がいる。各々が人生に各々の目標をもって生きている。

昨今の私は平和ボケしているので、生きているという実感がわかない。私と世界はうまくやっている。世界は私を拒絶しないし、私も世界を拒絶しない。森田センセーの本を読んだのがよかったかもしれない。神経症が和らいできている。

そういうわけで、精神が少しの余裕をもってきた。時間的余裕はもとよりある。それで、ある計画を立てているのだけど、それは作品を生むというプロジェクトで、ようやく開始というわけだけれども、しかし、すぐに頓挫してしまう可能性が高いと思う。

私のブログは、だれでも読めばわかるように、少し狂っている。さすがに最近は、もう年をとったこともあって落ち着いているのだが、数年前などは、今の私が見ても、「これはちょっと病気なのではないか」といぶかってしまうような文章がある。もっとも、かつて病気であったし、今も病気であるところの私である。しかし病気とは、ある種の逸脱なのだから、創造家とはぜんいん病人であるということになる。創造とは逸脱だからである。

偉大な作家は、偉大な病人である。……ということがわかったのは、近代以降のことで、天才は限りなくまともで健常な人間であるという誤謬が近代以前のヨーロッパにはあった。例えばゲーテは快活、健康そのものというイメージが定着していた。ところが実際のところ、ゲーテは躁鬱病だったのである。ソクラテスは癲癇で、ルソーは露出狂で、キェルケゴールはせむしで、フーコーはゲイだ。

実は天才って狂人なんじゃないか?ということがはっきりわかってきたのは近代以降なのである。しかし、多くの狂人は狂人のまま終わるというのが現実である。

さて、私は狂人だが、天才ではないのかもしれない。ただ私は天才の芽を持っていると思う。これをうまく伸ばせば、天賦の才となるかもしれないと考えている。なぜならば私は狂っているから。これは傲慢だろうか?現実の私は不幸である。うまく社会に適合できないという性質を持っている。しかし、光を失っためくらが、聴覚を誇ることが何かまずいことなのだろうか。

1 件のコメント:

  1. 頓挫してもいいじゃない。思うままにやってみればいい。評価だって人それぞれなんだし。あなたの文章力は然る事ながら、写真もすごく魅力的だよ。魅力ってのは無意識な部分にあると思う。だから何も考えず、やりたいようにやればいいよ。フローレン

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