9.23.2015

生の肯定

美しいものと、苦しみとは、同時になくなっていくもののようだ。

人間は苦しみに苛まれるが、それから解放されると次には退屈に悩まされる、と言ったのがショーペンハウエルだった。これは仏教でいう「一切皆苦」と同じである。

ニーチェはそういったぺシミスティックな考えに対して、苦しみこそ健康への道だとした。健康な精神はむしろ苦悩を求め、それを乗り越えることによってさらに高みに達するのだと。これが「強さのペシミズム」「ディオニュソス的ペシミズム」と言われるものである。

たとえばマッチョな男性がその肉体を維持するには、常に肉体に負荷をかけねばならない。それは苦悩を伴うが、しかしマッチョな男性はそれを「意志」する。使わない筋肉はしぼんでゆく、健康は損なわれる、というのが我々の常識である。

これと同じように、精神もまたこうした外圧や負荷に対する応力をつけることによって、より健全な精神を得ることができる。

ニーチェが批判したかった人物というのはよくわかる気がする。つまり聖教者である。その知力でもってして安寧に達した(と思い込んでいる)タイプで、何もかもわかったような顔をし、すべての人間よりも高みに至っていると考えているような人種、いわば「勝ち誇った」人種である。

こうした人間がその実もっとも腐敗している、というのは我々のよく知るところである。彼の知性はもはや外圧にさらされることがないから、しぼんで不健康になっているものだ。

人間の新しい生き方の提示をしたのがニーチェであると思う。仏教は生を否定している。キリスト教もまたそうだ。

アポロン的=理性主義的な世界では、人間は否定されるべきものである。ある理想に対しては、人間はつねに不完全だからだ。罪を犯さない人間はいないのだから、人間はつねに罰せられなければならない。これに対し、ディオニュソス=狂気主義的な世界では理想は存在しない。人間の存在それ自体が世界なのである。

ニーチェ曰く、「合理主義者は知識という豚を飲んで動けなくなった大蛇のようなものである」と。

ニーチェの優れたところは、永く人間を支配してきたぺシミスティックな考え方、すなわち西洋=キリスト教と、東洋=仏教の二つを喝破し、「それ以前」の生を近代において提示したことにあるのだろう。

だから私は、ニーチェはアンチクリストだけでなく、アンチブッダでもあると思う。

(なかにはニーチェの永劫回帰が仏教における輪廻転生のパクリだ、というおバカな人がいるけれども、そもそも輪廻転生自体が仏教のオリジナルではない。たいていの土着の宗教で見られるものである)

ニーチェはブッダやキリストを乗り越えた類稀な天才というべきだろう。



狂気、と言えば、先日放送大学で臨床心理学の講義を聞いていたら、興味深い話があった。

最近の臨床心理学では、「我々は語らない=沈黙する自由があるのではないか」という主張する研究者もいるらしい。

私もそのように思う。例えば自閉気味の人間を無理矢理明るみに出して、家族と会話できるようになった、仕事に就くようになった、それで成功だ、と喜ぶのが現代の臨床心理学ないし精神医学である。

これもひとつの理想主義である。つまり、明るくはきはき喋り、だれとでも仲良くなり、友人多く、スケジュール帳は予定でぎっしり、というような「リア充」にすべての人間はなるべきだ、という風潮があまりにも支配的であった。

このイデオロギーによって、われわれは穴蔵から引きずりだされ、無理矢理明るみに出され、言いたくもないお世辞を言い、聞きたくもない冗談に笑わなければならないのである。

こうした考え方は、今後変わっていくことだろうと思う。薄暗いあかりのもとで孤独に読書をすることも、人から離れ自然の中で隠遁生活することも、肯定されていくだろう。


1 件のコメント:

  1. >「我々は語らない=沈黙する自由があるのではないか」
    同じく私もそう思う。動物とは言葉なしでもコミュニケーションがとれる。人間は言葉に依存しすぎて、失ってしまった感覚もあるのだろう。フローレン

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